西郡コラム 『15分の教育改革』

『15分の教育改革』 2017年3月

週4回、授業開始前に毎朝15分「花まるタイム」を行う。これだけで、公教育の現場は大きく変わる。音読、平面図形パズル・空間認識ブロック、計算、書き写しの「花まるタイム」を、15分内で終わらせるには、スピードよく、リズミカルなテンポで進めることが必要になってくる。もたもたしていると、15分内では終わらない。
 公立小学校で、毎朝15分、従来と違うことをやることに、まず反対される。学校の先生にとっては“今まで通り”朝の15分は重要な時間。「それを割くのは勘弁してほしい」が本音だ。では、朝、これまで何をやってきたのだろうか。健康観察がその一つだが、一人ひとりが「大丈夫です」と発表する、形式的な時間になっている。朝の健康観察は不可欠だが、子どもの状態は「花まるタイム」中に観察できる。むしろ、動きがあった方が観察しやすい。
 朝は読書の時間にあてるべき。読書をする習慣とともに、心身の“静”の時間をつくる。しかし、この“静”が怪しい。じっくり本を読める子は、もともと本好きな子。多くの子どもがじっと我慢している。我慢を覚えるのも大切、読書をしないから読書の時間を設けるのもわかる。一方、「花まるタイム」は音読から始まるが、子の音読は“動”。うるさい、やかましいと誤解されるほど、声を出す。集中の前提は心身の解放、だから、音読で発散する。“静”をもとめるこれまでの時間とは、真逆の時間を過ごす。逆転の発想に現場を変える力がある。最初は懐疑的な先生たちも、実際に「花まるタイム」をやってみるとその意図に納得する。読書指導の重要性を軽視はしない。「朝の読書があるから『花まるタイム』はやめてほしい、日数を減らしてほしい」は、私には反対意見として響かない。「花まるタイム」の趣旨を理解している先生ほど、読書指導もうまい。仕事のできる先生はうまく時間を使う。指導のうまい先生のクラスの子どもたちは、図書館をよく利用している。「朝の読書が必要だから」は、朝の花まるタイム導入を拒む理由にはならない。
 「給食費や学級費を朝、集金する。その袋を職員室まで届けなくてはいけない。教室に置いておいて紛失したらだれが責任を取るのか」といった、あきれるほどの反対理由も聞いてきた。何かを導入するとき、それがいいとわかれば優秀な先生ほどうまく時間を使う。その時間の使い方が授業設計、展開にも生かされ、おもしろい授業になっている。工夫すれば、どうにでもなる。
 私もそうだが、年齢を重ねると教えすぎがおきて、テンポ・リズムが悪く、切り替えも遅い。ベテランの先生ほど、15分の花まるタイム内に終わらせることができない。自分の間、教える人間の間になっている。テンポよく、いいリズムで切り替えるのは子ども、つまり学ぶ側の間なのだ。「花まるタイム」は、先生にとっても、先生業の垢を落とす、いいリフレッシュの時間になる。子どもを惹きつける授業をする先生は、日々の実践で「花まるタイム」の要素を取り入れている。
 教員免許を持っている人が、教室で教えることができる。運転免許証と同じように、一定の年月を経てば、教育免許を更新しなくてはいけない。更新するためには、夏季、冬季の集中講義やビデオ研修を受け、必須単位を取得する。しかし、この制度は形骸化していて、教師力向上に貢献していない。何のチェックもなく、単位取得するのみ。だれでもできる。教師としてのどこがいいのかどこが悪いのか、見つめなおすことはない。学校内で先生同士、研修して指摘し合う方がまだ理に適っている。研修が軋轢になるから、外部に委託する、本末転倒が起こる。先生の研修のためにも、朝15分の「花まるタイム」の導入を通して、学校教育を変える。

西郡学習道場代表 西郡文啓