西郡コラム 『穏やかな気持ち(2)』

『穏やかな気持ち(2)』2011年5月

水が出ない。まずは水を探しに行くことになった。避難所になった小学校に配水車が来る情報を得たが、すぐに配給は終了、次はいつ運ばれてくるかもわからない。昨日配られた非常時用の水とペットボトルが2,3本あるだけだ。夜になり、近所の旧水道の蛇口から水が出ることがわかり、そこに水を求めに行くも、長蛇の列、午後11時の時点で300人近くが並んでいた。出直して再度挑戦、午前1時30分には50人ほどになり、暫く並んで水を得た。

貴重な水は、まず飲み水として使う。そして使用した水を溜めておく。2日間トイレは使えず、仮設のものを使用していたが、3日目からは自宅のトイレも使用できるようになった。下水が復旧しただけでも有難い。しかし水はない。風呂の残り水と溜めておいた水をトイレのタンクに入れて使う。タンク半分の水でも十分事足りることがわかった。いつもなら飲むこともできる水をタンクいっぱい溜め、そして流す。被災という非常時に改めて水の無駄使いを知ることになる。

一日は朝の水汲みから始まる。配水車も頻繁に来るようになった。自治体の配水車の他に、自衛隊の船が港まで来て、そこから自衛隊の配水車も加わるようになったらしい。近所に豆腐屋があり、そこの地下水を貰うこともできた。飲み水としては使えないが、洗い物やトイレの水としては十分使える。日ごとに冷静さを取り戻し、情報も確かになったためか、長蛇の列は消えた。しかし、液状化で泥水が水道管につまり、復旧を遅らせている。

蛇口をひねりさえすれば得られる水をあえて運ばなければならない。そう思うと辛くもなる。ただ、何日目だっただろうか。水の重みを背中で感じることができる、水の有難味を感じることができる、と思った瞬間、嬉しくなった。開き直りかどうかはわからないが、新たな発見は人を楽しくさせる。辛いと思えば辛い。しかし経験できないことができる、と思えば楽しい。水を背中に乗せ、よぼよぼ歩く。面白い姿ではないか。笑いたければ笑ってくれ、と、こういう心境になったとき怖いものはない。

水は出ない、ガスが使えないということは、風呂に入れないということになる。電気コンロやポットでお湯を沸かし、タオルを湿らせ体を拭く生活が続いた。最初は、拭くだけでは汚れや汗を落とせぬ不快感が残るが、日が経つにつれ慣れてくる。洗面器半分のお湯でも頭髪は洗える。もちろん使った水は溜めて、トイレの水として使う。一週間ほどして、風呂屋が営業を始めたということを聞きつけ、出かけてみると、これまた長蛇の列、諦め帰宅する。ないならないで覚悟を決めるが、風呂に入れるという微かな希望を裏切られた落胆は家族にとって大きかった。

その間、計画停電が始まった。ライフラインがズタズタになっている浦安市も紆余曲折のなか何日か計画停電の対象になった。水もない、ガスもない、そして電気のない生活の“ご利益”は、静寂だった。昼間は窓越しの日の光で本は読める。夜はただ闇。すると、考える時間、思いにふける時間が増える。日々の流れる時間が止まるように感じる。どうすることもできない無力感とそれでも生きていかなければいけない、自分を奮い立たせようとする気力とが交差する。しかし、それ自体が貴重だ。こんな経験と考える時間は、今しか持てない。“被災”を楽しむなど、口が裂けてもいえぬことだが、非日常に遭遇する自分に出会えることで、新たな自分を探す機会を得た。平時の想像だけでは貧困な発想しかうまれない。

東北・三陸海岸の被災地の想像を超えた惨状に比べれば、私たちの“被災地”の受けた被害は微々たるもの。住む場所はある。下水は使える。ガスはないが温かいものは食べられる。電気は止まるものの数時間の問題。水がないだけだ。それでも家族に若干のストレスがあることがわかる。一週間ほど経ち、授業再開に向けて動き出すことになり、教室に復帰するため、家を離れた。その日の夕方、家族からメールが届いた。浦安には、ディズニーリゾートの客を見込んだホテルが数軒ある。そのホテルが浦安市民に風呂を開放する、という。時間で割り当てられるため仕事中の私が入れる時間ではない、だから私には申し訳ないが、風呂を頂く、とこんなメールだった。私は返信した。「お気遣い、ありがとう。僕が心配なのは家族の精神状態だけ。僕は一向に構わない。むしろこの状況を楽しんでいる。この状態はまだまだ続く。これから先、愚痴を言わぬこと、攻撃的にならぬこと、そして穏やかな気持ちを取り戻そう」と。このメールの真意を家族も理解したらしく、今後の生活をどうするか前向きに話し合ったという。わかってもらえればそれでいい。些細なことでも、神経がピリピリしていれば気になる。語気も無意識に荒くなる。“いつもの生活”を基準にすれば、不自由はストレスになる。しかし、生きているだけで有難いの基準になれば、不自由の自由は面白い。

いよいよ授業が始まった。祖父母の家に行っている子どもを除く、ほとんどの子どもたちが再開の授業に参加してくれた。感謝。子どもたちと学ぶことができる、これこそが私にとって貴重な時間だということを改めて思い知る。そして、この子どもたちを鍛えようと、心に決めた。震災の負債は、十年単位の問題だ。つまり今の子どもたちが背負うことになる。日本は地震国、プレートとプレートとの狭間にある。千年に一度の地震がいつ何時に起こるかわからない。今かも、明日かもしれない。そのとき、生き抜いて、生活を再建する子どもたちを育てなければならない。逃避は不可なのだ。