西郡コラム 『驕(おご)らず、謙(へりくだ)らず』

『驕(おご)らず、謙(へりくだ)らず』2012年1月

高校二年の春、二人の転校生を担任が紹介した。「F県のS高校からきたA君です。O県の、えーと、なに高校だったかな、あー、そうだったね、H高校からきたB君です。」担任はこう紹介した。S高校は有名な進学校で、隣県の私たちも知っている高校だった。B君の在籍していた高校は、とある市の名前をつけた無名の高校だった。「S高校のA君」と、「えーと、なに高校だった、のB君」。担任はたまたま名前が出てこなかっただけ、他意はないかもしれないが、高校生にもなるとそういった言動は見逃さない、むしろ高校生だから憤る。人を高校名で、レッテルで判断するのか、不愉快な思いは担任への不信を募らせた。子どもの感性は、ときには大人より敏感で鋭いことを思い知るべき。「H高校のB君と、えーと、なに高校だったかな、そうそうS高校のA君です」、とニヤリとしながらいうぐらいのウイットなら、冷めた高校生でも担任を尊敬するかもしれない。ちなみに、学業は圧倒的にB君が優秀だった。

遡って中学のとき。クラスに万引きグループがいて、手を焼いていた担任が、誰がクラスに迷惑をかけているかを書かせるアンケートを配った。なぜ書かねばならないのか、猛然と私は抗議した。私から抗議を受けるのは想定外だったらしく、おまえがなぜ目くじらを立てるかと担任は呆気に取られて私に言った。アンケートは中止になったかどうかは記憶にないが、誰の名前も書かなかったことは覚えている。教師が自分で直接指導すべきことなのに、他の生徒を巻き込み、その力を借りて、彼らを追い込もうとするやり方に、今思えば、姑息さと卑劣さを感じたのだろう。万引き自体許される行為ではもちろんない。ただ、彼らは授業中騒ぐなどの妨害をすることはなかった。私たちには、“いい奴”だったが、先生たちには“従順”ではなかった。

数年前、中学3年の保護者から進路相談を受けた。内申がよくないというのだ。大方の内容を保護者から聞いて、その後、本人と話をした。彼は剣道部の主将をつとめている。前向きで、礼儀正しく、面倒見がよい、話しをしても、別に問題がある生徒ではない、むしろ好青年だ。が、なぜか、内申が悪い。よくよく聞いてもみると、学校の先生ともめていて、反抗的な態度をとっていると見られているらしい。確かに、高校入試、特に公立高校の入試では、内申の出来不出来が合否を左右する。中学3年生なら、高校入試のシステム、内申の役割も知っているだろうが、改めて高校入試の制度を説明し、つぎのようなアドバイスを送った。

自分の非を認め、先生に謝罪する。本意ではないとしても、公立高校の入試のためと妥協して、謝ることをみせる、“従順”な態度をみせる。内申のいい生徒たちは少なからず、うまく演じているはわかるだろう。ただ、どうしても先生の行為が許せないなら、直接、抗議する。抗議とまではいかなくとも、自分の真意は伝える。これは是非やるべきこと。自分のためにもただ反抗しているだけではないことを示す。よくよく話してみるとそこで理解されることもある。ただし、理解されない、まだ反抗的だ、ととられるかもしれない覚悟はしておくこと。その場合、内申には期待せず、高校入試の点数で勝負する。あるいは、公立高校の入試をあきらめ、私立入試を第一希望にする。あなたの今の状況は整理した。選択はあなた自身で下すこと。彼は真摯に私の話を聞いていた。そして、私立高校へと進学した。
内申は、点数で示される学業の成績だけではなく、授業中の態度、意欲、生徒会活動、クラブ活動などをも考慮しようとするもの。その理念は正しい。ただ、運用になると、判定の基準が曖昧で公平さを欠くのが現実で、制度が形骸化してくる。内申のためにいい行いをする、あるいは内申が“しばり”となる。本末転倒。誤解を恐れずにいえば、内申なんて気にするな、当たり前のことを正々堂々としろ、と。授業中、真剣に聞くのは当たり前、挙手を求められれば挙手をする。ノートをとるなら自分で工夫して自分のためのノート作りをする。提出物を出せといわれれば、誠意を込めて書いて出す。生徒会活動、クラブ活動しかり、誰かに評価されようと思う必要はない。すべて自分のため、高みに自分をおくこと。正当に評価する先生もたくさんいるはず。たとえ、正当な先生がいなくとも今の評価に惑わされることはない。あなたを評価する人はいずれ現れる。目先の評価に関わらず、もっと先を見つめてほしい。

若い感性は鋭い、自分の正しいと思うことを信じる。権威や既成概念に対して疑いを持てるもの若さゆえ、年齢を重ねると妥協に陥る。仕方がない、と自分を諦めさせる。正しくないことには正しくないと思うことは当然、いうべきときはいう。反抗期は既成概念を打破するエネルギーを養う。ただ、相手がよくないから自分はやらない、といった卑怯な行動は慎むべき。相手が何であれ、学ぶことはたくさんある。そこは謙虚に学ぶこと。正しいと思うことが思い上がりかもしれないという修正を常に受け入れる態勢をもたなければ、驕りとなってしまう。高いところに自分をおけば、まだまだ学ぶことは見つかる。誰かよりできたからといって自慢しても虚しいだけだ。謙虚さは美徳ではなく、学ぶ者の自然体。だから何からでも学べる。できたからといって驕る必要もない、できないからといって謙る必要もない。