西郡コラム 『排除の論理』

『排除の論理』2013年7月

ある私立高校で生徒が退学させられた。学校行事のバス旅行で一人の生徒を後部座席一帯に座る生徒たちでからかい、ズボンを脱がせる悪ふざけをした。ズボンを脱がせられた生徒の保護者が学校へ猛抗議、教育委員会に訴えるという勢いに押され、校長はかかわった生徒たちを退学処分にし、被害生徒の保護者の怒りを鎮めた。校長の論理は「わが校はいじめ撲滅をうたい、実践する」というものだった。

退学に処された生徒の一人から相談を受け、この事件を知った。この生徒は私たちの教え子で、温厚な性格、いじめをするような生徒ではないはずなのだが。話を聞いてみると、被害にあった生徒の後ろに彼はいて、周囲に囃し立てられるまま、その子を後ろから押さえてしまい、いじめの一端を担うことになってしまった。被害者である生徒はこの事件だけではなく何度かいじめの対象になり、今回の件で限度を超えたと判断した保護者が加害者の退学を要求したのかもしれない。しかし、教え子は日ごろから彼をいじめることはなかったそうだ。実際、彼の担任や周囲の先生も常日頃の彼からして彼には同情していたらしい。ただ、校長の決断を覆すまでの同情ではなかった。

ここまではあくまでも彼の保護者からの話を聞いただけ、実際、学校側の言い分を聞いたわけでもない。伝聞であり、真実はわからない。しかし、たとえ教え子が日常のいじめに加担し、率先してバスの中でズボンを脱がせる行為を行ったとしても、学校行事のバス旅行の中で起きた事件である。そこには監督の先生がいる。先生に隠れた陰湿さはない。バスの中の騒ぎに気づき、注意すれば済んだ話である。責任は、学校側にある。むしろ退学処分の是非をこちらが教育委員会に相談していい話だ。決して退学処分に甘んじることはない。ただ、教え子の保護者は、この時点で学校に見切りをつけた。たとえ退学処分を免れたにしても、学校への不信、校長、教職員への不信は拭えない。退学処分を受けた。

「いじめ撲滅」はいい、ただ排除の論理で預かった生徒を処分していいのか。このご時世、表ざたになって悪い評判でもたてば、次の入学者数に響く。安心して入学してください。この学校にいじめはありません。校長は学校の名誉を必死に守る。しかし、問題があれば、排除ではなく、そこで問題を犯す生徒も更生させることが教育のはず。いじめられた本人、保護者の屈辱は受けたものでしかわからない。精神的苦痛は大きく残る。同じ空間にいられない。自分たちが辞めるか、相手が出ていくかの選択になれば、加害者の退学になる。しかし、退学の要求に退学で答えるのは短絡的すぎる。「加害者の生徒たちは私たちの生徒、責任は私たちにある。もう一度立ち直らせる、もちろん二度目はない、今回だけは私に預けてくれないか」と説得してこそ学校の責任者。少なくとも彼らの入学を許可したのだ。校長にものが言えない教職員もおかしい。私立だから、自分の職は失いたくないから。

退学という学校を出る話だけではない。子どもたちは学校にいる時間は長い。人格を作る人間関係は、家族と過ごす以外、学校の交友関係、先生との関係が多くを占める。だから、保護者との面談では、学校の様子を聞くことにしている。多くの子どもたちは学校生活を楽しんでいるが、なかには苦痛の中で学校に通っている子もいる。教室で迷惑をかけている、家庭の方で躾をしっかりしてほしい。指示した行動が取れない、落ち着きがなく、授業の妨害になる、だから検査を受けてほしい、という話も聞く。検査を受けることはいい。その子の気質が客観的にわかる場合もある。学習障害(LD)、注意欠陥・他動性障害(ADHD)、アスペルガー症候群、自閉症等の診断が下されれば専門的な処方を受けることはその子にとっていいこと。心理の特別なトレーニングを受けることもできる。投薬も有効。何より保護者は他の子と比べることから免れる。

しかし、ここで気になるのは、こういった検査、その結果の診断が排除の論理として使われることだ。学校の先生の言い方、それを受け止める保護者がどう聞くかだ。その子の為なのか、排除の論理としてなのか。知能検査も同じ。この子はできないという烙印を押す為、選別する為なのか、それとも、そういう能力からどう伸ばしていくかの材料にするのか。できないのどこがなぜ悪い。できない、わからないから学習がある。どんな検査も人間の一面しかはかれない。客観性というマジックもある。

子どもたちの環境が次第に閉鎖的になっていることを危惧する。排除の論理が横行すると子どもたちの生活空間が狭まる。子どもは失敗もする、できる子ばかりではない、素行の悪い子もいる、生活の落ち着かない子もいる。完成されていないから子どものはず。子ども時代に経験を積み重ねることが生きる糧になる。いろんな人間がいる。一人ひとり違うから面白い。他と違うことを共有できなければ世界を狭くする。他の子よりできない、遅い、聞き分けがない、子どもに烙印を押すのをやめよう。子どもは変わる。一度の失敗を問題視し続け、レッテルを貼ることで、その失敗は大きくなり、二次災害をもたらす。誰しも過去を持つ。いい過去だけではない、話したくない過去もある。その過去から学習する。

排除の論理では、子どもは育たない。