西郡コラム 『子どもへの講演 7』

『子どもたちへの講演 7』 2014年4月

皆さんは、書くことが好きですか、それとも面倒だなと思っていますか。私も書くのは億劫だと思っている一人です。でも、面倒、億劫、なんてはいっていられない、やはり書いた方がいい。今日は、書くことの勧めをお話しましょう。

そもそも、なぜ、書くのでしょうか。以前にもお話ししましたが、忘れるから書く、これはメモです。時が経ち、その時の感動が薄れても、メモを見れば蘇らせることができる、だから書いておく。いつ、どこで、何があったか・・・そうです、だれ(who)、いつ(when)、どこで(where)、何(what)、どのように(how)、なぜ(why)、5w1hで書いておくと蘇らせることが容易になります。後で思い出すために書くわけですから、要約することも必要です。何がポイントだったのかという視点で、単語(キーワード)、センテンスであったり、言葉で言い尽くせないときは、雰囲気がわかるように絵(スケッチ)にしたりします。まとまった文章を書くときのもとになるのがメモです。ノートをとるというのは、メモの延長、メモをよりよい形にして、あとから自分の頭に再現する最もいい方法ということになるでしょう。自分のためにノートを作る、これも、なぜ、書くのかという問いのひとつの答えです。

なぜ、書くのか。私が小学4年生のとき、親元を離れ、預けられたことがあります。そのとき、日記を書かされました。何を書いたか覚えていません。書かされたけれども、苦痛でもなかった。ただ、日記を書くというのは、その日を振り返った、そういった時間だったということでしょう。花まる学習会の説明会で、皆さんの保護者の方に「おたまじゃくし」から「かえる」に変わる時期があるという話しをします。成長には変化の時期があるという話しですが、今思えば、私が日記を書かされたのは、この成長の変化の時期だったようです。それまでは、振り返ることはなかった、あったとしても、すぐ忘れる。前しか、自分の興味のあることしか見ていない。叱られても同じことをまたやる、一向に懲りない、何度同じことを言わせるの、とよく言われてものです。振り返ることができるようになってから、そんなに叱られることはなくなりました。書くということは、自分自身を振り返ること、当たり前ですね、振り返ってみないと書くことが浮かばないわけですから。

今になれば、日記を書くことは私の成長に役立ったんだと思えます。今になればです。日記を書いたからといって、書くことが好きになったというわけではありません。書くことが好きではなかった私ですが、学校の授業で書いた作文が、一度、何かの機関紙に掲載されたころがありました。私の遊びのエリアに、ちょっとした湖がありました。泳いだり、魚を捕まえたり、釣ったり、突いたり、湿地にはまりぬけなくなったこともありました。外遊びが始まったときから私の遊びの宝庫でした。その湖で、小学2年生のとき、同級生の男子が遊んでいた釣り船が浸水して、その子が水死する事故が起こりました。このことを作文に書き、掲載された。小学5,6年の時だったと思います。実は、私の書いた作文ですが、書き直されました。よりよい文にする、向上心ですね。書き直すこと、推敲、これ自体はいいことです。ただ、当時の私に何か腑に落ちないものがありました。

同級生の子が水死した、その死を悼む同級生が書いた作文として、掲載されたようです。確かに、葬儀に参加して、みなが泣きくれる、悲しい場面は脳裏に焼きついています。事故があった釣り船もよく知っています。私もよく遊びましたから。鬼のような担任が真っ赤に目を腫らして嗚咽とともに泣きじゃくる、その驚きもありました。同級生の死に心を痛めぬはずない。それはいいのですが。私が書きたかったことは、同級生の死を悼むだけではなく、その水死で私の遊びの宝庫が立ち入り禁止区域になったことです。この湖で遊ぶな、ということです。それでも遊んだら、えらく叱れました。私の作文の最後は、遊び場が禁止になったことを憂いた文になっていた筈です。しかし、そこは削除の指導が入っていました。腑に落ちないのは、こういうことです。私が書いたのは、同級生の死を悼む美談だけではない、ということです。

皆さんに何をいいたいか、それは、美談、立派な話、大人が喜ぶような話を無理に書く必要はないということです。自分が感じたものを素直に追求することです。その湖で遊びたい、わがままな私はまだいます。

作文教室を開いていました。開いていましたと過去形になったのは、作文は、FCの総合科に含めることになったからです。作文教室の講座を選択する、一部の子たちだけではなく、広く、みんなに書いてもらおうと思って総合科の中に吸収されました。だから、今は、直接、作文指導はしていませんが、当時の私の指導は、簡単です。本当にそう思ったの、なぜ、そう思ったの、いい話で終わらせようとしていない、いい評価をもらおうとしていない、だれでもそんなことはわかっている、だから何なの、何を言いたいの、誰に書いているの、私が鏡となって彼彼女を映し出す、これはあなたの本当の姿なの、といった具合です。個性というのは、奇抜な発想だけではありません。その子の感じたことを突き詰めてやることで個性は醸し出されます。もちろん、高学年、作文をさらに深めようとする子どもたちだからできる指導です。作文指導は、教育の到達点だと思っています。

この作文指導は、私自身へふりかかります。本当に、お前はそう思っているのか、そもそも、お前は「たより」に載せる文が書けるのか、と常に自問です。「たより」に書かせてもらっている重圧はあります。しかし、「たより」に書かせてもらっているから、私はより考えることができる、より考え、感じなければ書けない、と思い返しています。誰かの話をとってつけても薄っぺらい、何も伝わらない。自分自身から搾り出すしかない、と覚悟は決めました。

書くということは、自分自身への問いかけだとういうことです。

西郡学習道場代表 西郡文啓