西郡コラム 『学習道場は何をするところ』

『学習道場は何をするところ』 2014年12月

子どもたちは本気で物事を考えようとする。子どもたちは自分の頭で考えようとする、学びとろうとする。ただ教えている、聞いているだけでは、授業に出席しましたでは、子どもにも保護者にも、そして、私たちにも虚しさだけが残る。学習は「自分がどうする」という主体性の問題だ。本来子ども自身の持っている能力をどう伸ばしていくか。花まる、FCで教えてきた経験から、子どもを伸ばす秘訣は、その子が学習を自分の学習だと引け受けることができるか、直面することができるかどうか、ここに尽きると確信した。それを体得した子ども、自分で何とかしようとする子は自ずと伸びる。
 知識の習得より、当事者意識をつくっていくことを中心に授業をすすめる。生きていくためには生涯、学ぶ。学ぶということは、学習するということはどういうことなのか、その基礎をつくる鍛錬の場として学習道場を設立した。道場という堅苦しい名前にしたのも「向き合う場」を表現するには適切だと思ったからだ。学習の主体性は、生活の当事者意識から生まれる。自分のことは自分でやる。責任は自分で負う。何がわからない、宿題は何、親が介入していては、いつまで経っても自立しない。自分で判断しなければ、経験は積めない。間違ってもいい、むしろ間違いをどう修正し克服するかに学習の本分はある。
 子どもを伸ばせない弊害は、学習の量の多さとその消化不良、偏差値による序列と不必要な比較、保護者への情報過多などから生まれる。道場ではそれらを排除する。その子がその課題を克服しないと前には進まない。わかるまで教える。ただし、自分からわかろうとしない場合は教えない。教えないことも教育。まじめにコツコツ学習する子に応える。わかること、できることを積み上げていく学習を基本にする。誤魔化さないこと出来た振りをしないこと。できない、わからない、学習は難しい、覚えられない課題も多い。だから無意識に自分自身を誤魔化したり、自分を出来たようにしないと耐えられないこともある。しかし、誤魔化しや出来た振りは学習の障害でしかなく、できない、わからないことに対峙することとは対極にある。
 できることならやりたくない、逃げ出したい。そこでも逃がさないで直面させる。わからない、できないからふてくされ、ぐずったり、言い逃れ、言い訳を始め、そして、甘えたりする。そこを逃がさないのが道場。許されない厳しさも必要だ。分からない、出来ないから叱るのではない。逃げ出したい、投げ出したい心を叱責している。子どもは褒められると伸びる、やる気もでる、達成感、自己肯定感もうまれる。だから褒めて伸ばす。道場でも花まる同様、この指導法は継承している。一方、小学4年生以上、ギャングエイジの反抗も出てくる。反抗心はいいこと、それを押し殺さずにむき出しにさせる、それでもだめなものはだめと正面から向き合う講師が要る。子どもも向き合う、講師も向き合う、至極当然のことを基本に据えているのが学習道場なのだ。褒めるも叱るも同じこと、すべて、その子の学習へのモチベーションを高めるためにやる。
 道場生のこれまでの成長をみてわかったことは、基本の徹底が大切であるということ。逃げず、誤魔化さず、振りをしない、苦しむかもしれないが、わかる喜び、できる自信が次の学習意欲を生む。そのために、正しい姿勢、計算、漢字、音読といった基本学習、そこにある集中の仕方、暗記の仕方、授業の聞き方といった基本的学習法を一貫して指導する。すぐにはできない、時間がかかる。子どもも保護者も目に見える成果を求めすぎないことを訴えている。
 自分で考えさせる、やる、のは時間がかかる。できないなら、どうすればできるようになるか、わからないなら、どうすればわかるようになるか、自分に意識を向かせる。こちらがやり方を導いた方がいいときもあるが、依存してしまうと、あとに残らない。たとえば、宿題を忘れました。ではどうすれば宿題を忘れないようにするか。自分でその解決法を見出すこと。しかし、すぐにできない。できないからできない子と烙印を押してしまうのは、二次災害、ますます、できなくなってしてしまう。すぐにはできないが、続けること、あなたはきっとできるから、この視線で子どもを見てあげられるかどうか。
比較が意欲の妨げになる。あの子よりできない、は以ての外だが、あの子よりできる、は間違った褒め方、できないとき、更にできない子をさがすことになる。逃げ場を求める方法は、誰かより上の位置を探す方法となる。学習に必要なのは向上心、より劣っている者を探すのは向上心の真逆をいく。比較は私たちに必要な考え方の一つだが、こと子育てに関しては比較は封印する指導法を行っていく。私たちが子どもを見るのは、今の努力そのものの評価、そして正しい方向に向いているかどうか。学力の結果として表に出ない努力を、その学習の仕方を認めてあげることが私たちの役割だ。
 知能、能力には個人差がある。遺伝的な要因が大きい。たとえば語学、習得の差異は遺伝が大きく左右する。しかし、もって生まれてきたものを嘆いても仕方がない。個々それぞれの能力を一つひとつ伸ばしていくしかない。道場では一人ひとりの“処方箋”を持っている。環境が子どもの能力を発揮できないようにする場合もある。一つは早期教育の押し付け、学ぶこと=嫌なことと刷り込まれてしまうと、いざ考える段階になって思考が止まってしまう。間違った学習観で苦しむ親子とともに、焦らず、正しい学習の仕方を見出し解決していく。
学習道場は、知能、能力、学力の高低は問わない。自分の課題に向き合い、それぞれの成長を促す。正面から向き合う子どもたちがいて正面から受け止める講師がいる。時間はかかるが、子どもたちは確実に成長している。それをしっかりと認めてあげるところが学習道場だ。

西郡学習道場代表 西郡文啓