高濱コラム 『24年―教育の未来』

『24年―教育の未来』2017年4月

G1(※)農学部というサークルを作って、飲み会をしました。マネーフォワードの辻庸介氏やYahoo!の宮澤弦氏など、私以外は20・30代の若手なのですが、実力があって、やりたいことを仕事にして満喫している素敵な仲間です。宴も半ば、ユーグレナの出雲充氏が「ちょっといいですか。高濱さんがいる席ですが、一言どうしても言いたいことがある」と手を挙げました。彼の言い分はこうです。
 「私は教育っていらないんじゃないかと思っている。長年、若手社員の教育を行ってきた。あるとき自分が経験してよかったと思うことを伝えたくて、熱く語りかけた。皆いい顔でうなずいて聞いていた。ところが数日して全員に聞いてみると、なんと誰一人自分の言ったことを実行していなかった。あんなに懇切丁寧に教えたのに。そこで『本人がやる気になっていなければ、何を教えても無駄だ』と気づき、方向転換をした。自分は着々と情報収集して学びつつ、社員から質問が来たら各人に教えるようにした。それから会社の実績が何倍も上がった。つまり教えることに意味はないのではないか。」
 聞いていて微笑ましくなりました。教育の世界ではさんざん議論し尽くされている、レディネスまたは意欲の問題です。すなわち、その情報を吸収するのにふさわしい成長段階に達していなければ、学びの意義がなくなるということですし、本人にやる気がなければ何を教えても仕方ないということです。「レディネスと意欲のことだね」とまとめたら、皆納得していました。
 ただ、この質問には、彼の類まれな「見えない本質を見抜き」「常識にとらわれずに課題を設定する」という実力が見えます。それは、皆が当たり前と思っている教育必要論についても、「本当か?」と疑ってかかるような見方と、考えを深める方法を身につけているということです。そして才あふれる彼をして、「教育=教え込み」と理解していることが、この国の教育の病でもあります。
 これは、私にとってタイムリーな話題でした。それは、与えられた枠組みを信じて18年ないしはそれ以上、国民全員が学校制度というものに身を預けているけれど、本当に一人の人間が成長していくうえで必要かなという疑問とそれにまつわるメモを貯めていたからです。
 例えば学生時代に国語は全部満点だったと豪語する女性がいます。その人に、どんな先生と出会って何を学んだかを聞いても、特に出てきません。その半生を聞くと、要するに、読書に没頭していた小学生時代までに、その実力の大半を伸ばしているのです。学校の国語は「得意だから、どちらかというと好きだった」という程度です。講義形式の受け身の時間は彼女にとってほぼ無駄な時間だったのではないでしょうか。私には、穴の開いたバケツに水を注いでいるイメージというのか、膨大な時間が無意味に過ごされている像が浮かんだのです。給食や文化祭、運動会などは社会性を育む点でも意味があると思いますが、核になっているはずの「授業の時間」に、気の遠くなるような無駄感を抱いたのです。作家になるくらいの人は、そこに早々に気づき、離脱したかもしれません。
 算数・数学でも、必要な論理力や緻密に思考する力の大半は、パズルやなぞなぞ(特に答えがすぐにはわからないもの)が好きで熱中したという子ども時代に、ほぼ出来上がっています。知識体系はサボっても挽回できますが、優秀なエンジンは没頭の時間によってこそ伸びるのです。社会や理科でも同様で、大人になっても優れていて魅力的な人は、それが好きで好きで「はまっている」という表現がピッタリですよね。典型例はさかなクンです。
 そのような意味で、旧来の授業は、実はほとんど意味がなかったのではないかとまで考えました。もちろん、低学年時代までは群れになるからより学ぶ意欲が高まりますし、高学年以降にその道の「筋のよい先生」の話を聞くことでその科目のビジョンが広く豊かになるというプラス面などはあります。高校以降の知識などは専門性が高く、ある程度導いてもらってから身につける方がよいでしょう。しかし、どう考えても学力は自分の時間で伸ばすものです。自分の時間とは、国語ならば先述のような熱中する読書の時間であり、知らない言葉に出会ったら「宿題だから」ではなく「わからないと気持ち悪いから調べよう」とすぐに辞書を引きノートにまとめる時間です。仲間と議論するときに心の底から言いたい言葉として知識を使っている時間です。
 このことは、事例でも裏付けられます。『AERA with Kids』という雑誌で、現在連載を任されていて、「魅力的な大人」にインタビューしています。高濱は「メシが食える大人、モテる大人」と言うが、具体的に当てはまる人物を提示してみてくれという企画です。ここまで3名の人物に聞きましたが、いずれ劣らぬおもしろい人ばかりで、一人は幼稚園を年少で中退した男性。一人は落ちこぼれて北千住や池袋で不良をやっていた男性、一人は友だちも少なく一人で図鑑ばかり読んでいたという女性。学歴も環境もバラバラですが、いま成功し未来も燦然と輝いています。キャラクターもそれぞれなのですが、共通項は、芸術・仕事など「何かに打ち込む親の姿」を見て育ち、自分も外遊びや本、映画、図鑑に「没頭した時間」を、子ども時代にたっぷり持てていることです。
 私はいま、古い授業システムを脱却し、すべての時間が「没頭」で満たされた学校を構想しています。

さて、2月の講演会では、講演を終え頭を下げていると、視界の端に大柄の中年男性が映り、立ち上がってこちらに近づくのを感じました。動物本能として一瞬身構えてしまったのですが、目を向けると一人の柔和で朴訥としたお父さんでした。キョトンとする私に彼は「いつも素晴らしい話をありがとうございます」と言って、花束を渡してくださいました。思えば花まるを設立して丸24年。講演会に呼ばれるようになってから20年以上、今では年100回ほど講演をしていますが、主催者以外にこういうものをいただくのは初めてでした。それがお父さんからとは。おかしいような気恥ずかしいような気持ちで会場から駅に向かう道、「そういえば、小・中学校時代って、一枚も表彰状はもらえなかったな。なんだか初めて立派な表彰状をもらった気持ちだな」と、感謝と感動がじわじわとこみ上げるのでした。
※「G1」…G1サミットのこと。次世代を担うリーダー層が集い、学び、議論し、日本再生のヴィジョンを描くための場
   
花まる学習会代表 高濱正伸