高濱コラム 『それいくら』

『それいくら』2026年1月

 もう随分前ですが、講演会終了後に一人の身なりの良いお母さまに相談されました。中学生の娘さんが不良行為で補導されたというのです。そのときの違和感は忘れられません。懸命にお話しになるのですが、娘さんとのまったり語り合ったり抱っこしたりするスキンシップの時間はほとんど取れずに育てたというのです。それは仕事がうまく行っていてどんどん忙しくなったからだったこと、一般的なサラリーマンが聞いたら驚くような年収であること、不動産を買って売却するような投資でも多額の利益が出ていることなどを語られるのでした。お母さまご本人の経歴を聞いても幼い頃からドリルや問題集をたくさんこなすような育ちで、一貫して受験の勝者であり続けた方でもありました。

 お話しして感じたのは、必要な哲学をしていない方だなということでした。たとえば中学受験をすると決めてうまくいくこと自体は何も悪いことではありませんが、社会の仕組みのなかでポジションを得て、折り合いをつけるために必要なことに過ぎない。しかしそこで望む合格だったから、その繰り返しだったから、他人がうらやむ高収入だったからこその落とし穴で、「一度きりの人生において何を大事にして生きるかを、立ち止まって考えてみる」ということができていないんだなと感じたのです。常に外から与えられた評価基準をクリアして勝利することの繰り返し、「少しでも偏差値が上」「少しでも年収が上」を目指してきた人生が見えました。

 長年教育の世界にいると、金銭的に恵まれた方のお子さんに起こる問題を見聞きすることは少なくありません。一概に言い切れることではなく個別に条件も状況も入り組んでいるのですが、落とし穴の共通項としては、「多忙で子どもとのくっついて雑談する時間が不足していること」と「過剰で余分な買い与えをしてしまっていること」が二大要素でした。子の健やかな成長にとって、ただくっついて甘える「無償の愛を感じる時間」の大事さは言うまでもありませんが、ジャン=ジャック・ルソーの言葉を借りるまでもなく「余計な物を買い与える習慣」が大罪であることも間違いなく、講演会等で長年私も言い続けていることです。

 さて、親自身の哲学不足に焦点を当てましょう。どんな時代の変化があろうとも仕事に子育てにともに大活躍している方々には、正解なき人生を生きる「美意識と哲学」が感じられます。「モノを作ることが一番ワクワクするから、その道を極めよう」とか「困っている人を助けることにこそ意欲が湧くから、人を助ける仕事をしよう」とか「家族こそ最も大事だから、誰一人残すことなく全員の幸せを目指して生きよう」等々。そして、健やかな青年期を迎えられた人は自然とこの「哲学期」を迎えるはずです。多くは図書館にこもったりバックパッカーの一人旅をしたりしながら考える時間を作ります。私も24歳の一年間は牛乳配達で生活ペースをキープしながら、ただただ哲学をしていました。その結果、毎日感動して生きられる道(子どもたちと一緒にいられる教育の仕事)を生きようと決意しその通りにできたわけで、あの一年は大きかったといま振り返っても言いきれます。

 ところが偏差値も給与もハイレベルで突破・達成していく人生を歩むと、「いいなー」と羨望されたりもするので逆に「何のために生まれて、何をして生きるのか」について内省し結論を出せないまま「表面的な勝ち組」として生きてしまうことがあります。そのしっぺ返しは、「恵まれているはずなのに『ここじゃないかも』と感じる空虚感」や「コトの軽重を見誤り、子育て(や夫婦関係)における取り返しのつかない失敗」となって襲ってきます。そのような親のもとで育った子が放つ言葉があります。何かを見たときに出る「それいくら?」という一言。自分の目で見て心に聞いて「この絵は素敵だ」と言うのではなく、「この値段だから良い絵」と判断するのです。

 少し哲学をすれば、「人生は誰にとっても有限であり、一日を懸命に生きるしかない。今日、心が動く何かに出会えたらもうそれだけで十分に幸せだ」という価値観に至るはずですが、泣きそうなくらい綺麗な夕陽を見て一瞬感動しても「これがいくらになるっていうんだよ」と「価格のモノサシ」を持ち出すのです。

 数値(偏差値・ランキング・給与・年収)に支配されず使いこなしながら、日々のなかの小さな感動の重みを忘れず生きていたいものです。そういう意味では、俳句などは典型的な「行きる毎日のなかの一瞬の感動」を定着させた芸術ですよね。

「古池や 蛙飛び込む 水の音(芭蕉)」

 多くの方は見過ごしそうな閑寂の風景のなかにポチャン。「あ、蛙が飛び込んだんだな」と感じた一瞬の、なんと豊かなことか。

「分け入っても 分け入っても 青い山(山頭火)」

 これは無季語自由律の俳句ですが、歩いて汗をかいて旅するなかでの深い山並み(ちなみに私の故郷熊本から宮崎へ抜ける山道)の風景への小さな感慨を描き、何と生きることや孤独をうまく表現していることでしょう。

 小さな一句で、先達は我々に道を照らして教えてくれています。現代はお金のことを考えずに生活するわけにはいかないし、社会の仕組みを見抜き、自身に力をつけ渡り合い自活していくことは当然大事なことです。しかしそのなかでも、なにが一番大切なことなのかを見失わない大人でありたいものです。

 ところで、先日友人夫妻に京都を案内してもらいました。穴場の名店の料理も絶品だったのですが、「思文閣」という、知る人ぞ知る古美術のお店が素晴らしかったです。芭蕉や一休さん直筆の掛け軸をはじめ、無数の絵画や美術品があり、そのなかに9月号のこの欄で書いた「散る桜 残る桜も 散る桜」の良寛和尚直筆の掛け軸もありました。クニュクニュのたくった筆で書かれた文章を読んでみてビックリ。そこには、「ただもう子どもたちと遊んでいることで良いのだ」という意味のことが書かれてありました。まさに、私が24歳以来軸にしてきた考えと同じです。本当に偶然ですがちょっとした縁を感じて、なんだか「よく来たね」と良寛さんが言ってくれているような気持ちがしたのでした。

花まる学習会代表 高濱正伸