『会話というキャッチボール』 2025年12月
キャッチボールは野球の基本練習のひとつ。私が相手にボールを投げ、そのボールを捕った相手が、今度は私にボールを投げる。私が捕ってまた投げる。これを繰り返す。右利きなら左手にグローブをはめるから、私は相手が捕りやすいように左胸に投げる。正確に左胸に投げる、相手の投げたボールを正しく捕る、これを何度も繰り返す。正確に同じところに何度も続けて投げるのは難しい。相手のコントロールミスで構えたところではない、予想もしないところに飛んでくるボールをとっさに捕るのもまた難しい。正確に投げ、正確に捕る、これを反復するからフォームづくりの基本練習になる。そして、野球はチーム戦、ボールが相互に行き来するキャッチボールは、チームメイトとお互いに心を通わせることができる。妻と話していると、「お父さん(私)の言っていることがわからないときがある」とよく言われる。早口になっている、活舌が悪い、出身地の違いでイントネーションが違うというのもあるだろうが、長く一緒に生活しているから多少は憶測で理解できる。妻が言おうとしているのは、妻の言ったことを私が取り違えて返事をするから、わからないというのだ。妻いわく、共通の言語がない、と。今更、それを言うのかと思ったが、同じ言葉でも違うことを私は考えているそうで、確かに投げかけられた言葉の真意より、その言葉に関する自分の閃きが先にたって話してしまう傾向は昔からあった。共通言語がないと突きつけられても耐えるしかない。コミュニケーション能力の欠如でもあるが、自分の閃きを優先して、これまで生きてこられた幸福もある。
「学ぶ、やりぬく意志をもつ」「学ぶ、できた、わかった、喜びを感じる」で始まる学習道場の心得に「人の話は最後まで聞く、相手の真意を読み取る」「人にわかるように筋道立てて話をする」という項目がある。「相手の真意を読み取る」「筋道立てて話す」というのは、私自身が痛感するところで、私の反省からこの項目を設けた。なお、心得には「乱暴な言葉、粗野な言葉は心を乱す」も入れた。相手のことをおもんぱからない、ののしる言葉、暴力的な言葉は自分の心を貧しくする。
教育ジャーナリストの方が、著書を出したいので資料として私の話を聞きたいという。「『伸びない子はいない』というのはどういうことですか」といった基本的な道場の方針から「受験に向いている子はどういう子ですか」「勉強が嫌いな子をどう受験に向かわせますか」「苦手な教科をどう克服すればいいですか」といった具体的なことまで、さまざまな質問に答えた。ジャーナリストは私が答えるごとに「そうですよね」「それはいいですね」「私たち、大人にも通じますね」など大きなリアクションで上手な合いの手を入れる。すると調子に乗った私はいい気持ちになってベラベラとしゃべってしまった。
取材後、いい気になってしゃべってしまったことに恥ずかしさが残ったが、ジャーナリストの質問は、連想ゲームのように日頃、私が思っていることを言葉として表に出すきっかけになった。「自分はこんなことを考えているのだ」と、思わず口から出た。漠然とぼんやりと思っていることがあらわれた。一人で考えて悶悶としてなにも浮かばず固まってしまっていたが、インタビューという他者に身を任せることで自分が解放され、潜んでいた考えがあらわれる、いい刺激になった。会話で自分を発見することもある。
私を子どもたちに置きかえて考えてみると、私たち大人はジャーナリストのように子どもたちがどんどん話したくなるような聞き方をしているのだろうか。子どもたちからもっと語らせる、引き出してやるだけの会話をしているのだろうか。聞き上手になると、子ども自身が話をしたがるようになる。子どもが語ることで、子どもの思考力を伸ばす。「忘れ物がないようにしなさい」と言うのと、「明日何があるの」と言うのとでは違ってくる。その場そのときの言葉かけひとつで、子どもの想像性を萎ませることにも膨らませることにもなる。
会話は言葉のキャッチボール。ボール(言葉)を投げ、相手が取りやすいように届ける。相手の言葉を正しく(真意を読み取って)受け止める。ボール(言葉)が正しく行き来して会話は成り立つ。そして、話で行き来する言葉は醸造される。
よりよい言葉のキャッチボールは言語生活を豊かにし、国語力の高さは言語生活の豊かさに裏打ちされる。言葉をよりよく使う生活は子どもの言語能力を高め、そして、考える力も伸ばす。
西郡学習道場代表 西郡文啓
