『ちゃんと、自分でたどりつく』2025年6月
ピアノの教室に行くのに、楽譜を抜きとって、かわりに画用紙とクレヨンを準備していく子どもだった私に、母はピアノをやめさせるかわりに造形教室を探してくれました。
描いたり作ったりすることが大好きでした。手を使って何かを創ることは、息をするのと同じくらいに自然で当たり前のことで、それを職業にしようと思ったことは一度もありませんでした。それは内面的で、日記のような、とてもプライベートな営みであったからです。
言葉を使わなくても、自分の内面に深く潜り、無心になってただ自分の好きに向かい合う。没頭しているうちに、心の中の何かが浄化されていく。
「それがなんの役に立つのか」と問われれば、なんの役にも立たないように見えることが、その人にとっては当たり前に、そしてとても大切な役割を果たしていることもあるのです。
母は私がどんな学問を学んでいるかについて尋ねることはありましたが、それを人生で何に役立てるべきかについて問うことはありませんでした。「学びはその人の内面を豊かにするもの」きっとそう信じていたのだと思います。この考え方が、私の人生における羅針盤になったのだといまではわかります。
「この子にとってどちらのほうが可能性があるでしょうか」
「どちらを優先すべきでしょうか」
少し子どもの発達について知識があると、幼少期の教育がいかに重要かを理解しています。だからこそ、多くの大人は、限られたこの時期に少しでも能力を伸ばしてあげたい、情熱を注げる対象を見つけ、それをできるだけ育んであげたいと願います。その気持ちはとてもよくわかります。
ただ、何かを学んだからには、それを使って結果を出さなければならない――そんなふうに、「かけた時間やコストには見返りが必要だ」と考えてしまっている人が、思いのほか多いように感じます。まるで目的地に最短ルートでたどり着くことが最も重要だと言わんばかりに。
ひるがえって子どもたちの世界はどうでしょう。遊びに意味や目的などはなく、その子の興味関心に沿って心と体が躍動している。そこには夢中と没頭・緊張と解放があり、試行錯誤にあふれ、さらに達成感があります。自分らしさは意識せずとも自然とあふれ出てくるのです。
「この子にとってどちらがいいか」と、子育てに“コスパ”を求める大人も、「いますぐ一生をかける仕事を見つけなければ」と焦る学生たちも、かつてはみな、そんな子どもだったはずです。
でも、人生のおもしろさは、ふとした寄り道のなかにあることが多いのではないでしょうか。最短で目的地に着くことが大事なら、道のりは短いほうがいい。でも、旅そのものが目的なら、その道中を味わうことこそが本当の豊かさになるのです。
どの子にも、秘めたタネがあって、その芽は必ず花を咲かせるのです。
「最も自分らしく生きていくこと」が、自分の望む仕事を生み出していくことにつながる。人が、その人自身になることを極めていくと、必ず人の役に立つことができるのです。
だから、「どちらを優先すべきか」はどちらでも構わないのでしょう。きっとその子が行きたいところに、最後は行きつきます。
井岡 由実(Rin)