花まる教室長コラム 『200mの一人旅』榊原悠司

『200mの一人旅』2023年3月

 駆け出しの頃、担当していた教室へ、二か月後に一年生になる甘えん坊で気ままな男の子が来ることになりました。三月、お母さまから「事前にいろいろとお話をしたい」と相談を受け、一時間にわたる面談をしました。
 彼は予定日より三か月早く828gで生まれ、脳性まひを患っていました。脳性まひは、主として運動機能に障がいが見られるものですが、さまざまな障がいを合併しやすいものでもあります。彼の場合は、左半身の発達に遅れが見られるほか、精神遅滞・学習障がいがありました。「うちの子やっていけるかなあ」と心配される言葉とは裏腹に、お母さまは常に温かい微笑みを浮かべお話しされていたことをいまでも鮮明に覚えています。

 期待に応えたい、そう意気込んで臨んだ私の出鼻は初日に挫かれました。教室にある物を次々と床へばら撒き遊ぶ彼。「時間になったからやるよ!」「いやだ、やりたくない」というやり取りは数知れず。何とか遊びから離してテキストにこぎつけても、ものの数分で「せんせいやって、ぼくできない」と言って離脱。そんな彼の手を引いて、一歩だけでいいから一緒に前へ、そんな伴走が一年ほど続きました。
 二年生の夏、ご家庭である取り組みを始められたことを知りました。「寝る前に『今日の反省』と題して一日を振り返り、一番楽しかったことを私に報告してもらうんです。そのあと、私から見て良かったこと、たとえば挨拶を元気にしたね、とか、靴を揃えたね、とか、そういうことを3つ伝えています!」これを始められてすぐに教室で大きな変化が見られました。ネガティブな言動が影を潜め、「じぶんでできる!」「じぶんでやりたい!」と言うことが多くなりました。かと言って自力では難しい。そんな彼の意志を叶えられるように体を支え、ヒントを出すなどのサポートをする、それが伴走者の役目になっていきました。
 三年生になるときに私は異動となり、彼を教室で見ることはなくなりましたが、その後は一年に一回、サマースクールで一緒になりました。そこでは彼専属のリーダーがつき、種々の活動を手助けする場面がありつつも、順調に成長をしていた彼は歳を重ねるごとに自力でやれることが増えていました。それでも時折、懐かしい一面が出ることもありました。彼が参加した最後のサマースクール。川で遊んだあとで宿へ歩いて移動しているとき、「つかれた、もうあるきたくない!」と言って地面にしゃがみこみました。「この感じ、なつかしいなあ」と思いながら、久しぶりに手を引いて一緒に歩きました。それが花まる学習会で彼と直接かかわった、最後の思い出でした。

 ときは流れ、2021年。中学一年生になった彼が東京オリンピックの聖火ランナーに応募をして選ばれた、という嬉しいニュースが飛び込んできました。「小さく生まれた赤ちゃんのお父さん、お母さんにも大丈夫だよと伝えたいし、生きているって素晴らしいんだよとみんなに伝えたい」そんな想いで応募をしたそうです。一年の延期を経て出走場所が決まり、彼は中心市街地の四車線もある大通りを200m走ることに。当日、現地に足を運ぶとその道路脇には人だかりができていました。まるで箱根駅伝かのように。定刻になると、数十メートル先のスタート地点に、聖火が灯されたトーチとともに彼の姿が現れました。コロナ禍とあって声を出しての応援は禁止。辛うじて声が出るのを抑えましたが、心のなかでは「うおおおお!」と叫んでいました。走り出すとあっという間に目の前を通過。拍手が鳴り響く広大な道路のど真んなかにある彼の後ろ姿が、小さくなると同時に涙で霞んでいきました。七年前「せんせいやって」「いやだ、できない!」と、ことあるごとに言っていた彼が、三年前「あるきたくない!」と言って座り込むこともあった彼が、いま、大観衆が見つめるなか、間違いなく何の支えも必要とせず、想いを込めて自分の意志で自走しているのだと。

 「うちの子は自分が普通だと思っているんです。だから私も特別なことをせず、この子のペースで変わるのを信じて待つだけなんです」

 七年前と変わらない微笑みを浮かべそう言う母親の元へ、200mの一人旅を終えた彼は、凛々しい少年となり帰っていきました。

花まる学習会 榊原悠司