花まる教室長コラム 『六月の楽しみ』山﨑隆

『六月の楽しみ』2026年6月

 電車が止まり、ふと目線を上げると、きれいに咲いたアジサイが目に飛び込んできました。生命力にあふれた緑色の葉に、薄い水色のガクが淡い花火のように広がっています。アサガオやアジサイのように、水彩絵の具で描いたような色合いの花が昔から好きでした。雨に打たれる喜びを全身で味わうかのように、アジサイは咲いています。
 もし六月にアジサイの花が咲かなかったら、私たちはこの季節を我慢することができたでしょうか。降りつづける雨にジメジメとした空気、サウナに入っているかのようににじみ出てくる汗。物憂げな六月の雨のなか、せめてものお詫びにとでも言うように咲いているアジサイの美しさは、これで帳消しというわけにはいきませんが、この季節を楽しめる理由のひとつになっています。
 電車から見えるアジサイに気づいたのは私一人ではありませんでした。幼い子どもを連れたお母さんが、子どもに語りかけていました。
「アジサイだよ、すごいね、きれいだね」
子どもはまだ言葉を話せない年頃のようでしたが、大きな瞳に水色の影を映していました。
 このようにして、人の感性は受け継がれていくものなのでしょう。何かを美しいと思う感覚は知識ではありませんが、人から人へと受け渡されていくものなのだと思います。心が動いた瞬間を言葉にして伝えることで、子どもの感性の網の目が、蜘蛛が糸を引くように張りめぐらされていく。そんなイメージが私にはあります。

 先日の授業で、1年生の子が涙を流す場面がありました。日々の頑張りの疲れが出たようです。少し気持ちを落ち着かせてもらおうと、窓際で風に当たるように伝えました。しばらくシクシクと泣いていましたが、外に置かれた植木鉢に気づくと一瞬で泣き止みました。「これは〇〇だ!」と言い、さらに茎に結ばれたチョウのサナギを見つけて喜んでいました。元気を取り戻したことに安心しましたが、それ以上に、この子のなかにこのような感性が育まれていることが嬉しく思えました。
 目の前にあった小さな鉢植え。その小さな世界にしっかりとうごめいている生命の発見を、まるでジャングルで新種の生物を見つけたかのように興奮できる感性。その興奮から、世の中は素晴らしい驚きにあふれているということへの喜びが感じられたのです。
 昨今では「経験格差」ということが言われていますが、大人がどんなに心配しても、当の子どもたちにとっては大した問題ではないのかもしれません。松岡正剛さんは田中優子さんとの対談本『江戸問答』(岩波新書)のなかで、このように言っています。

「ほんとうは自然観を養うのも人間観を養うのも、大事な一本の木さえあればいいのかもしれない」

 この言葉を借りるのであれば、私の教室の子のほうが一枚上手なのかもしれません。一本の木よりも小さい、植木鉢のなかに感動を見つけたのですから。感性の豊かな子どもたちは、小さな鉢植えであっても自然を十分感じ取ることができるのです。一匹の虫に自然を見出し、一個のボールで遊びつくせる力を子どもたちはもっています。
 そんな子どもたちの力を引き出すために、大人の私が大事にしたいと思っているのは、やはり言葉です。電車のなかで見かけたお母さんがしていたように、小さな感動を語りかけることで、子どもの感性は引き出されていきます。植木鉢のミクロコスモスに感動していた教室の子も、周囲の大人たちの言葉で豊かな感性を育んできたのでしょう。
 自分自身ではもう思い出すことはできませんが、アジサイの美しさも子どもの頃に誰かが教えてくれたものに違いありません。そして感性の継承は、なにも子どもに限った話ではないと思っています。坂本龍一さんの早すぎる晩年を追ったドキュメンタリーで、雨の音を楽しむ音楽家の姿が映されていました。私もそれ以来、雨の音を楽しんでいます。またひとつ、六月を好きになる理由が増えました。

花まる学習会 山﨑隆