高濱コラム 2004年 7月号

かつて、ある幼稚園の雲梯(うんてい)で、首から下げたヒモの絡まり具合が悪くて、事故が起こったという記事を読みました。目を疑ったのは、「すぐに園長が運梯を撤去する措置をとった」という一文です。ヒモ類を首から下げて遊ぶことに注意を喚起すれば十分なのに、運動機能育成にとって大きな力になる雲梯を取り去ってしまう。そこにあるのは、「私共は、すぐに対策をとりましたよ」というアピールです。子どもの将来を見据えたら、本質からずれた、というよりむしろかえって悪い方向への行動をとってしまっています。

記事を読んで数日したとき、教育の世界の尊敬する先輩方との懇談の場があり、話題に出したところ、それは格言になるなという話になりました。「雲梯を片付ける」すなわち、問題に対して、責任追及の回避のために、その場しのぎの誤った対策を取ることです。

例えば、部品の設計ミスによる事故に対して、社内システムにメスを入れる気もなく、記者会見で頭だけは下げて、「調査委員会を設置しました」と言ってる社長。例えば、昔からの子どもの最高の遊び場である川で、一件の事故があったときに「遊ぶな、危険」と近づかせないように立て札をしてしまうお役人。彼らの振る舞いに、「ああ、ここでも雲梯が片付けられているな」と使います。

11歳の小学6年生、しかも女子児童による殺人事件が起こりました。私が最も衝撃を受けたのは、ちょうど直後に数名の精神科医の方々と飲む機会があったのですが、そのとき異口同音に「あんなこと、いろんな小学校で、もう起きていることですよ。死んでないから表沙汰になってないだけです」という声を聞いたことです。いい加減な事を言う人たちではないので、一層ズッシリ響きました。

神戸の14歳に驚いて7年。大人たちが、本当に子どもたちの将来を考えた本質的なことを回避して、雲梯を片付けることばかりやってきた証左が、今回の事件だと私は思っています。大人も含めて、「経済原理」や「便利」や「快楽」と引き換えに、人として重要な「安心」から遠ざかってしまった証明であると思っています。

本質的なこととは、今日ゲームをやめさせることであり、「みんな持ってる」の言葉に負けないことであり、バーチャルではなく実体験を増やしてあげることでしょう。テレビやコンピュータや携帯電話の悪影響を正当に見据えて、どこまで子どもに触れさせるかの線引きを明確にし、人との係わり合い・自然との係わり合いに向けて、時間やフィールドを広げてあげることでしょう。一夜の月の光を、親子でしみじみ感じる空間を取り戻すこと、と表現できるかもしれません。

こもれば狂う。詳細分析は未確認ながら、加害者の少女は部活を辞めさせられて、部屋で孤独にコンピュータと向かい合う時間が増えてから、異常さを増していったようです。「ゲーム脳」ではありませんが、人間関係の不和を背景にして、機械に向かい続けることの害は明らかにあると思います。

人は一人では生きていけない。ぬくもり・かかわり・会話の中でバランスをとり、正常を保てるようにできています。大人みんなが、子どもの「安心」を取り戻す努力をしていかねばなりません。私は、汗と笑いと涙にあふれた、大自然の中の異学年の子ども同士の体験教室を、社会的使命と信じて、性懲りもなく提供し続けていくことにします。

花まる学習会代表 高濱正伸