高濱コラム 2008年 9月号

『   』

スクールFCの勉強合宿における、朝飯前特訓という早朝の漢字テストでのこと。中3のクラスを回っていたら、解答と丸つけをやっていたのですが「おかしいよ。これ答え間違ってるでしょう」という声があがっています。見ると、何々教授のコウギという問題で、解答は「講義」なのですが、「講議」ではないかという生徒が複数いたのです。

文字というのは面白いもので、さっと瞬時にOKの感覚があれば迷いはないものも、じいっと見つめていると「本当にこれでよかったかなあ」と自信がなくなってきたり、ヘンな形に見えてきたりするものです。「いや、第一感間違いないでしょう」と言ったものの、何人かに言われると弱気になってきてしまい、結局辞書で調べることになり、やはり講義が正しかったということが確定しました。

問題はその後です。そこにいた生徒全員が、「そうか、正しい答えはやっぱり講義か」という納得だけで、次の作業に移っていました。ただ私一人だけが、国語辞典で調べ直しました。すると、義は「人間の行うべき筋道」という意味で仁義や義務・正義、「人道・公共のためにつくすこと」という意で義士・義捐金、「仮の」の意で義歯・義母・義手などと使われる一方で、「意味・わけ・言葉の内容」という意味があり、語義・多義語・同義語などと使われることが分かりました。また議は「相談・意見」の意味で、会議・抗議・討議という熟語として使われるということも分かりました。

計算テストの丸つけをしている彼らを止めて、「ちょっと聞いて。今、辞書で調べたけど、議は議論とか会議と使われるように「意見・相談」の意味、義は「意味」の意味。講義とは「義を論ずる」つまり、相手が知らない言葉の意味についてお話をしてあげることだから、絶対に義で決まりっていうことだね。」と解説しました。彼らの瞳がキラリと光ったので、私はこう続けました。「『答えはこうなんだな』で終わりにしないようにしよう。漢字って成り立ちに意味があるんだし、『なんで、そうなのかな』って、いつも疑問に思ってほしい。ちょっと時間は遅くなるようだけど、こういう一作業こそ、真に積み重なる良い勉強なんだよ」と。

ほんの2・3分のできごとですが、考えさせられる時間でした。尊敬する先達の言葉に、「教育で一番大事なのは(教材が何だとか、学級の生徒数が何人とかではなく)誰が教えるかだ」というものがあるのですが、その真意は、教える内容や情報以上に、伝授する側の人格こそが子どもに多大な影響を与えるということでしょう。

ただ丸つけをさせて点数をつけて終わる大人と、ひとつの疑問にこだわって解決する姿勢を示す大人とでは、子どもに与える影響は、日々の微差が積み重なって大差となります。実際に「調べる習慣のある保護者の子は成績がよい」というデータもあります。何かを教えながらも、結局のところ、知ること分かることへの情熱とか、真理への謙虚さや誠実さ、喜びと感謝の心を持って学ぶ姿勢などこそを、子どもたちに薫陶として伝えていくのが、周りにいる大人の務めなのでしょう。

さて、今回の件で哀しかったのは、この程度の漢字の知識は、大学受験時代には絶対にあったはずなのに、もうすっかり忘れて しまっていることです。人生は忘却との戦いでもあります。子どもに示すためというより、今後は特に自分自身のためにも、不明点はすぐに調べる習慣に磨きを かけなければいけないようです。