にっぽん風土記 -淡路島-

『にっぽん風土記 -淡路島-』

こんにちは。今回の「にっぽん風土記」で訪れたのは兵庫県の淡路島。一泊二日の強行日程で島を一周してきました。

【大地の割れ目】
 淡路島へは兵庫県の明石市(日本の標準時子午線:東経135度が通る市です)から船で渡ります。明石港から、淡路島の北端である岩屋港までは約20分。あっという間の船旅です。
 海上の風は冷たいのですが、陸地に近づくと劇的に温度が変わります。蒸したような温かい空気に迎えられ、船は岩屋港に接岸。淡路島に初上陸しました。
 港の近くでレンタカーを借り、島の西海岸へ。まず向かったのは島の西北端にある野島断層保存館(のじまだんそうほぞんかん)です。
野島断層保存館は、1995年に起きた阪神淡路大震災の震源地付近にあります。断層というのは、大地の割れ目のこと。断層がずれることで、阪神淡路大震災のような直下型地震が発生します(今回の東日本大震災はプレート型地震といって、地震の発生メカニズムは阪神淡路大震災と異なります)。16年前、淡路島北端付近の複数の断層が大きくずれて阪神淡路大震災を引き起こしました。野島断層は、その時にずれた断層の一つです。野島断層保存館には、震災で大きくずれた野島断層が、全長140メートルにわたって、当時の姿のままに保存されています。
保存された野島断層を見ると、地震のエネルギーを改めて痛感せざるを得ません。アスファルトは無残に砕け散り、大地はあるところは大きく盛り上がり、あるところは沈み込んで、大地の様子は一変していました。
保存館では、断層の実際の断面を見ることもできます。断面を見ると、真ん中に一本の筋が見え、その左右では土の色が異なっています。土の色が異なるのは土の種類・性質が違うから。真ん中の筋は、異なる二つの土が接する境目で、これこそが断層です。この断層がずれて大地が割れ、地震が発生するのです。
日本列島には、いたる所にこういった断層が存在します。特に有名なのが、九州から関東にかけて列島を横断する中央構造線。とても大きな断層です。手元に地図帳があれば、四国・近畿地方の衛星写真を見てみてください。愛媛県松山市から徳島県徳島市を経て、和歌山県和歌山市へと、まるでナイフでまっすぐに刻んだかのような地面の切れ込みが見えるでしょう。これが中央構造線です。このような大地の切れ込みが、時には見えやすい形で、時には姿を隠しながら列島を横断しています。すでに書いたように、この中央構造線以外にもおびただしい数の断層が日本列島に存在していて、日本が地震大国と呼ばれる理由の一つとなっています。
実際の断層を目の当たりにして、日本列島で生きていくことの危険性、そして安全対策の重要性ということを改めて強く認識することとなりました。

【洲本の城下町】
 宿は、淡路の中心地である洲本(すもと)の街でとりました。洲本は江戸時代からの城下町。街は、洲本城のそびえる三徳山(みとくさん)を中心に広がっています。頂上の城跡には壮大な石垣が残り、見る者を圧倒せずにはいません。
 ところで淡路島は、大昔から現在の徳島県との関わりが深く、本来であれば徳島県に属するはずでした。しかし、現在は兵庫県に属しています。なぜでしょう?
 その理由は、この洲本の城下町で明治3年(1870年)に起きた事件にあります。
江戸時代の淡路島は、徳島藩のお殿様である蜂須賀(はちすか)氏の領地で、蜂須賀氏の有力な家来である稲田(いなだ)氏という武士が蜂須賀氏の代わりに治めていました。洲本城は、稲田氏が淡路島を支配するためのお城だったのです。
江戸時代の初め(江戸時代は1603年からです)から明治時代初め(明治時代は1868年から)までの約270年間、稲田氏は淡路島を支配し続けました。稲田氏にはたくさんの家来もいて、あたかも淡路島の大名であるかのように見えましたが、稲田氏は飽くまで蜂須賀氏の家来であり、稲田氏の家来は蜂須賀氏の家来の家来ということになります。稲田氏の家来は、蜂須賀氏の家来の家来ということで、徳島藩の武士よりも一段下の武士として扱われ、厳しい差別を受けました。例えば、徳島藩の武士は白い足袋をはくことを許されていましたが、稲田氏の家来はそれを禁止され、浅葱色(薄い青)の足袋を強制されていました。一段下の武士だということが一目でわかるようにです。
淡路島を支配し続けた270年間、稲田氏とその家来たちは、徳島藩士からの厳しい差別に耐え続け、差別撤廃の機会を待ちました。差別を撤廃するには、方法は一つだけ。それは、稲田氏が徳島藩から独立し「稲田藩」を創設すること。これ以外にはありませんでした。

【稲田騒動】
そして明治3年、事件が起こります。稲田氏とその家来たちが、発足間もない明治政府に対し、徳島藩からの独立と、「稲田藩」の創設を訴え出たのです。稲田氏は、明治維新のときに大きな功績を残していたので、それを利用しての訴えでした。しかし徳島藩側は、これを黙って見てはいませんでした。家来である稲田氏に勝手に独立されてしまっては徳島藩の面子(めんつ)は丸つぶれです。そうはさせじと血気にはやる徳島藩の過激派は、突如、洲本城下で稲田方の武士を攻撃しました。この攻撃で、稲田方に多数の死傷者が出ました。知らせを受けた明治政府はこの事態を重く見て、攻撃の首謀者を捕らえて厳罰に処します。切腹10名。これが、日本史上、最後の切腹刑となりました。また稲田氏の家来たちも、当時はまだ原生林に覆われていた蝦夷地(北海道)への移住を命じられ、苦しい生活を余儀なくされました。この一連の出来事を、稲田騒動と呼びます。
「稲田藩」の創設を夢見て行動した稲田方の武士たち。そして、それを阻止して徳島藩の面子を保とうと戦った徳島藩士。どちらも命がけの行動でした。しかしこの翌年(明治4年=1871年)、明治政府によって廃藩置県が断行されます(全国の藩が廃止され、府と県が設置されました。つまり、日本からお殿様がいなくなったということです)。なんという皮肉でしょう!彼らが夢を託し、命をかけて守ろうとした藩そのものが日本から消滅してしまったのです。こうして、多くの犠牲者を生んだ稲田騒動は、勝者も敗者も無いままその幕を閉じ、歴史の中に埋もれてゆきました。彼らは一体何のために戦い、何のために命を落としたのか。そのことに果たしてどんな意味があったというのか。洲本の街を歩きながら私は、稲田騒動に想いを馳せ、歴史の残酷さ、不条理さを感じずにはいられませんでした。
現在、淡路島が徳島県でなく兵庫県に属しているのは、淡路島と徳島県(徳島藩)との間に、このような暗い過去が横たわっているからなのです。

【高田屋嘉兵衛】
 翌日は、都志(つし)という街に行きました。途中、風景は見渡す限りタマネギ畑とレタス畑。どちらも淡路島の特産です(受験生の皆さん、覚えていますか?特にタマネギは重要ですよ!)。
 都志の街は、江戸時代に高田屋嘉兵衛(たかだや・かへえ)という偉人を生みました。嘉兵衛は江戸時代後期の海運業者で1769年生まれ。この時期に盛んだった北前船(きたまえぶね)貿易で、最も大きな成功を収めた商人の一人です。北前船貿易とは、日本海を通り、蝦夷地(現在の北海道)と上方(かみがた=近畿地方)を往復して行う貿易。とても簡単に言ってしまうと、蝦夷地で積んだ昆布やニシンなどを上方で売り、その利益で上方の品物を買って今度はそれを蝦夷地で売る、というものです。
 北前船貿易で大きな利益を上げ、まさに順風満帆に見えた高田屋嘉兵衛。しかし、1812年、その嘉兵衛に大きな危機が訪れました。国後島(くなしりとう)沖(ロシアによって占領されている北方領土の一つです。択捉島=えとろふとう、色丹島=しこたんとう、歯舞群島=はぼまいぐんとう、とセットで覚えましょう)で、ロシア海軍の軍艦によって捕らえられてしまったのです。嘉兵衛、時に44歳。軍艦の主はロシア海軍の少佐、ピョートル・リコルドです。
 この出来事には背景があります。それは、この前年に起きたゴローニン事件。ロシア海軍の少佐であるヴァシリー・ゴローニンが、当時蝦夷地を管理していた松前藩によって逮捕され、抑留(よくりゅう)された事件です。当時の日本は鎖国(オランダ、清=今の中国、朝鮮としか付き合わない、という政策です)を強化している時期だったので、交易を求めて来日し、国後島沖で測量を行っていたゴローニンは捕えられてしまったのです。
 測量をしていただけなのに逮捕するなんてひどいと思うかも知れません。でも、このゴローニン事件にも背景があります。この事件の前、ロシア海軍の軍人が択捉島で日本人に危害を加える事件が発生していました。このため日本側は、「ロシアには、日本を侵略しようという考えがあるのではないか」という危機感と敵対意識を抱いていたのです(実際には、ロシアにこのような考えはありませんでした)。このような状況下で、測量中のゴローニンは日本側に捕えられてしまいました。
 リコルドが嘉兵衛を捕えたのは、ゴローニン事件への報復、つまり仕返しのためでした。嘉兵衛はロシアのカムチャッカ半島へと連れ去られます。嘉兵衛は西洋人を見るのも初めて。当然言葉も一切通じず、命の保障ももちろんありません。普通なら、人生に絶望してしまうところでしょう。悲観して自殺してしまうか、ひたすら命が助かることだけを考えるのが関の山というところでしょう。
しかし、嘉兵衛は違いました。事態を前向きに捉え、今の状況で自分を最大限に活かす方法を模索したのです。まずは自力でロシア語を覚え、自分を誘拐した張本人であるリコルドと懸命に意思の疎通を図りました。そして、何とかそれができるまでになります。ついには、自分が誘拐されたのはゴローニン事件への報復のためであり、その背景には、日本側のロシアに対する危機感、敵対意識があることをリコルドから聞き出すまでになりました。
 リコルドも変わりました。嘉兵衛の、絶対に絶望しない精神力、持ち前の明るさと威厳、そして度量の大きさに感動し、嘉兵衛を深く尊敬し、信頼するようになります。リコルドは日記や手紙に嘉兵衛のことをたびたび書いていますが、彼はその中で「聡明で教養があり、有識者、良心的な人物」「敬愛する高田屋嘉兵衛」「わが友高田屋嘉兵衛」という言葉で嘉兵衛のことを表現しています。いつしか二人の間には、国境や人種を超えた強くて深い友情が育まれていったのです。

【二人のタイショー】
嘉兵衛とリコルドは、敬意と信頼、そして親しみを込めて、お互いを「タイショー(大将)」と呼び合う仲になりました。さらには、ロシア海軍の水兵たちも嘉兵衛を慕い、尊敬するようになり、嘉兵衛は彼らからも「タイショー」と呼ばれる存在になりました。
そして、嘉兵衛はリコルドに一つの提案をします。「自分を蝦夷地に送り返してほしい。自分が日本の役人に、ロシアには日本侵略の意思は無い、ということを伝える。そして、ゴローニンの釈放と帰国を実現させてみせる。」
 リコルドは嘉兵衛を信じました。嘉兵衛を再び軍艦に乗せ、函館まで送り届けたのです。嘉兵衛は約束どおり、命がけで日本側の役人を説得します。鎖国をしていた当時の日本では、許可なく外国に渡った日本人は死刑になる決まりでしたから、文字通り命がけでした。実は嘉兵衛は、リコルドに捕まった直後、日本にいる弟の金兵衛(きんべえ)に、次のような内容の手紙を書いていました。「今回自分はロシアに連れて行かれてしまった。自分の運命もこれで終わりだろうか。しかし、一度死んだ気になればもう怖いものは無い。であれば、自分の命はもう捨てたものと思って、両国間の戦争を止めるためにできる限りのことをやってみようと思う。」
 説得は見事に成功しました。日本はロシアへの敵対意識を解き、ゴローニンは解放されてロシアへの帰国が叶いました。そして嘉兵衛も、生きて日本へ帰国することが許されました。政治家でもない、殿様でもない、役人でもない、一介の海運業者が、自分の才覚と肝っ玉一つで、一触即発で戦争になりかけていた国と国との関係を見事に取り持ったのです。
 ゴローニンはリコルドの船(ディアナ号。嘉兵衛はジアナと呼んでいました)に乗ってロシアへと帰っていきました。嘉兵衛は小船からそれを静かに見送ります。嘉兵衛もリコルドも、恐らくもう二度と会うことはできないだろうということはわかっていました。日本の鎖国の方針は変わらなかったからです。話したいことは山ほどあったことでしょう。抱き合って成功の喜びを分かち合いたかったことでしょう。しかし、日本の役人の目がある中では、それは不可能でした。鎖国という大きな壁が、二人の間に立ちはだかっていたのです。二人は万感の想いを胸に秘め、沈黙の中で互いに見送り、見送られました。
 その時です。リコルドと、彼の船に乗るロシアの水兵たちが嘉兵衛に向けて一斉に叫びました。
「ウラァ、タイショー!(大将、万歳!)」
この叫びは、三度起こりました。
 嘉兵衛も、「ウラァ、ジアナ!(ディアナ号、万歳!)」という叫びでそれに応えました。
 これが、二人のタイショーの、永遠の別れとなりました。

【その後】
 この出来事から約30年後の1844年、ロシアの船が日本とロシアの国交樹立を求めて択捉島へ行く、という知らせを聞いたリコルドは、日本にいるはずの嘉兵衛に向けて手紙を送りました。「日本とロシアは仲良く付き合うべきだ」そして「タイショーに再び会いたい」と。
 しかし、この手紙が嘉兵衛の手許(てもと)に届くことはありませんでした。嘉兵衛は事件から14年後の1827年、すでに亡くなっていたからです。リコルドはそのことを知りませんでした。来るはずの無い返事を待ちつつ、リコルドも亡くなります。リコルドが亡くなったのは1855年。それは日本とロシアの間に日露和親条約(にちろわしんじょうやく)が結ばれ、正式に国交が開かれた年。いわば二人の悲願が達成された年でした。
 都志の高台に、嘉兵衛の墓はあります。弟の金兵衛の墓と並んで、今でも眼下に広がる故郷の海を眺めています。嘉兵衛は亡くなる間際(まぎわ)、見守る親類や知人に、「ウラァ、タイショーと言ってくれ」と言ったそうです。これが、彼がこの世に残した最後の言葉でした。リコルドとの友情は終生変わらず、忘れ得ぬものであったのでしょう。
 嘉兵衛が連行されたロシアのカムチャッカ半島に、三つの大きな山があります。2006年、ロシア政府がその三つの山に名前を付けました。その名も、「ヴァシリー・ゴローニン」「ピョートル・リコルド」「タカダヤ・カヘイ」。三人が築いた、日本とロシアの友情をたたえて付けられた名前です。しかし、日本とロシアは現在領土問題を巡って対立を続けています。深い信頼で結ばれ、山の名にもなった三人。天国の彼らは、一体どのような思いで、今の日本とロシアの様子を見つめているのでしょうか。

 さて、今回の「にっぽん風土記」はここまで。そろそろ島を出る最終バスの時刻が近づいてきました。
彼らの友情と功績、そして現在の日露関係に想いを馳せながらバスに乗り込み、私は島を後にしたのでした。

【高田屋嘉兵衛の墓】 【洲本城址】

<今月の問題>
1. 淡路島と明石市の間にある明石海峡は、タコの名産地です。ここで獲れるタコは、筋肉質で身がしまっていることから「明石のタコは○○○」といわれ、昔からその味と歯ごたえをたたえられてきました。では、○○○に入る、筋肉質なことを表す言葉は何でしょうか?
A.立って歩く B.ケンカが強い C.船を壊す D.包丁で切れない

2. 淡路島と徳島県の間にある海峡は、渦潮(うずしお)で有名です。では、この渦潮をモチーフにしてつくられた食べ物は何でしょうか?
 A.恵方巻き B.ちくわぶ C.なると D.ダシ巻き卵

3. ロシア語の「ウラァ」を日本語に訳すとどんな意味でしょうか?
 A.おめでとう! B.さようなら! C.万歳! D.感動した!

<6月号の解答>
1.徳川家は代々、今の静岡県の伊豆地方で、ある食用の植物の生産を奨励していました。それは、その植物の葉が、徳川家の家紋である葵の葉とよく似ていたからです。その植物は今、伊豆地方の名産品となっています。では、その植物とは何でしょうか?
A.れんこん B.わさび C.みょうが D.よもぎ
→Bの、わさび。葉の形が、徳川家の家紋である葵の葉とそっくりです。江戸幕府を開いた徳川家康が栽培を奨励したといわれています。
2.1867年にフランスのパリで行なわれた万博。ヨーロッパの人々に最も人気の高かった日本の出し物は何だったでしょうか?
 A.日本刀 B.鎧兜 C.ふんどし D.芸者さん
→Dの、芸者さん。容姿や物腰の美しさ、着物のあでやかさなどが、当時の西洋人の琴線に触れたようです。万博会場に仮設の日本家屋がつくられ、芸者さんはそこで来場者を接待しました。
3.最後の将軍徳川慶喜は、写真撮影のほかにも当時としてはとても珍しい趣味を持っていました。それは何でしょうか?
 A.テニス B.ジャム作り C.サイクリング D.スキー
→Cの、サイクリング。徳川慶喜は多趣味な人物で、他にも刺繍などが趣味でした。しかし、残された刺繍作品は多くないようです。作品のできばえに厳しかった慶喜は、「こんな失敗作が残されたら元将軍の名がすたる!」と、自分で満足できない作品はことごとく処分してしまったからです。

◆応募資格:スクールFC・西郡学習道場・個別会員および会員兄弟・保護者
◆応募方法:「問題番号と答、教室、学年、氏名」をお書きになり、「歴史散策挑戦状係行」
      と明記の上、メールまたはFAXでお送りください。なお、FCだよりにて当
選者の発表を行いますので、匿名を希望される方はその旨をお書きください。
◆応募先:Mail address :t-kanou@hanamarugroup.jp 
FAX :048-835-5877(お間違えないように)
◆応募締め切り:2011年 9月 10日(土)21:00
◆当選発表:FCだより11月号にて発表いたします