にっぽん風土記 -壱岐-

『にっぽん風土記 -壱岐-』

こんにちは。今回の「にっぽん風土記」で訪れたのは長崎県の壱岐(いき)。玄界灘(げんかいなだ)に浮かぶ、東西約15キロ、南北約17キロの島で、九州と朝鮮半島の間に位置しています。福岡市の博多港からフェリーに乗り、約2時間。台風の接近で荒れに荒れる玄界灘を突っ切り、私は壱岐に初上陸しました。

【一支国】
壱岐は、島ひとつで長崎県の壱岐市を構成しています。現在の人口は約3万人で、離島に見られがちな過疎の傾向が現れている地域の一つです。壱岐最大の街である郷ノ浦(ごうのうら)も、街並みはささやかそのもの。また、島にはコンビニもファストフード店も大型スーパーもそれぞれ一軒しかありません。島を歩いていて目に入ってくるのは、森と、低い丘陵と、田と、そして海ばかりです。
しかし、過疎に悩む壱岐にも、かつて栄光の時代がありました。それは、今から約1750年前の弥生時代。当時書かれた中国の歴史書に、壱岐が登場します。その名も「一支国(いきこく)」。つまり、壱岐という島一つが、一支国という独立国だったのです。
その頃の中国は『三国志』で有名な三国時代で、魏・呉・蜀(ぎ・ご・しょく)の三つの国が争っていました。その三国の中の魏の歴史書『魏志(ぎし)』の中の「倭人伝(わじんでん)」という章に、貿易で栄える一支国の様子が記載されています。それによると、当時の一支国には田はあるものの食料が足りず、人々は貿易で生計を立てていたことや、当時の日本最大の王国である邪馬台国(やまたいこく:女王・卑弥呼が治めていた王国)に従っていて、邪馬台国から役人が派遣されていたこと、などがわかります。
田があっても食料が足りない、ということは、裏を返せばそれだけ人口が多いということです。また、ここで書かれている貿易というのは、海を隔てた中国大陸や朝鮮半島、そして日本の九州との貿易をさしています。日本列島と大陸との中間地点に位置する一支国は、海上貿易の重要な中継地として、大いに栄えていたと考えられるのです。

【王国の都】
島の南部。あたりは一面の田園風景です。その中に、まるで弥生時代にタイムスリップしてしまったかのような錯覚を覚える光景が突然出現します。原の辻(はるのつじ:「はらのつじ」ではありません!)遺跡です。この遺跡は弥生時代の大きな集落の跡で、ここが、かつての一支国の都の跡、つまり、一支国の首都です。遺跡に近づくにつれ、目に飛び込んでくるのは高床倉庫(たかゆかそうこ)、物見やぐら、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)などなど。皆さんが教科書で目にした事のある様々な建物が、実際の大きさで迫ってきます。
でも、実はこれらは実物ではなく、すべて復元されたもの。なーんだ、と思うかもしれませんが、どれもが発掘調査に基づいて正確に復元されていて、教科書にも載っている「ねずみ返し」などの細かい部分もしっかり再現されているので、一見の価値は大いにあります。さらに集落の周りには、敵の襲撃に備えて作られた堀なども再現されていたりして、そのリアリティーはかなりのものです。
そして、遺跡に併設されている「一支国博物館」には、一支国の繁栄をしのばせるたくさんの遺物が展示されています。その中でも特に有名なのが「黄金の亀」。黄金製の装飾品で、亀(もしくはスッポン)をかたどっています。今のところ、このような作品が見つかった例は世界でもここだけ。つい見とれてしまう美しさ、可愛らしさです。他にも、日本最古のトンボ玉(ガラス製のアクセサリー)や、160本もの銅製のヤジリ(矢の先の金属の部分。一つの遺跡から見つかったヤジリの数としては日本最多です)など、一支国の繁栄を示すものが数多く見つかっています。
遺跡は田園の真ん中の高台にあるため、吹き渡る風はとても美しく、実り始めた稲の香りがあふれています。きっと一支国の人々も、ここで同じように風に吹かれ、稲の実りを見つめながらその年の豊作を祈っていたのでしょう。
【元寇】
一支国は、日本と中国・朝鮮との中継地点として大いに栄えました。日本列島と大陸との中間地点に存在するからです。しかし、だからこそ受けた被害にも非常に大きなものがありました。その最たるものが鎌倉時代(1192年~1333年)に起きた元寇(げんこう)です。
元寇とは、当時中国大陸と朝鮮半島を支配していた元(げん)という大帝国(モンゴル民族が建てた国です)が、日本侵略のために大軍で北九州周辺に攻め寄せた出来事をいいます。元寇は二度発生していて、一回目を文永の役(ぶんえいのえき)、二回目を弘安の役(こうあんのえき)といいます(順番がこんがらがってしまう受験生は、一回目だからまだ永く続く=文永の役、これで最後だから安心=弘安の役と覚えましょう)。
壱岐は、二度とも大きな被害を受けています。まずは一度目の元寇である文永の役。
1274年、元軍は福岡県の博多を襲撃の目的地として朝鮮半島を出発しました。壱岐はその途中にあるため、格好の餌食(えじき)とされたのです。押し寄せた元軍3万に対し、壱岐を守るのは平景隆(たいらの・かげたか)率いる約100名。数の上では、もとより勝負になりません。しかし、68歳の景隆は果敢に元軍に立ち向かいます。結果は見えていても、誰かがやらなければならない。そう決意しての戦いだったのでしょう。奮戦の末、景隆は追い詰められて自刃。日本軍は全滅しました。彼が戦った場所には今でも、唐人原(とうじんばる)などの地名が残っていて、戦いの記憶を生々しくとどめています。唐人というのは中国大陸の人という意味。つまり、大陸から攻め込んできた軍隊と戦った場所、という意味です。壱岐を荒らしまわった元軍は、いよいよ北九州に攻め込みます。そこで日本の武士団と戦い、有利に戦いを進めますが、折柄(おりから)の台風によって多くの船が沈み、大損害を被って大陸へと退却。日本は、かろうじて滅亡の危機をまぬがれました。
【二度目の元寇】
しかし元はあきらめません。7年後の1281年、二度目の元寇である弘安の役が発生します。この時の日本軍の大将の一人が少弐資時(しょうに・すけとき)。彼はこの時19歳でした。当時の年齢の数え方は数え年といって、今の年齢の数え方えである満年齢より1~2歳下になります。つまり、今でいえば彼は17歳か18歳。高2か高3という年齢になります。その彼が率いる兵士はやはり100名ほど。対する元軍はなんと14万(!)。万に一つの勝ち目もありません。しかし、彼も使命に逆らうわけにはいきませんでした。わずか17、8歳にして、島の運命を背負い、勝負の見えきった戦いにすすんで立ち向かったのです。奮戦の末、資時は討ち死に。壱岐は再び元軍に踏みにじられました。
壱岐を手中にした元軍は再度北九州の地に攻め込みます。しかし、日本の武士団の強力な反撃にあって元軍は大陸へ退却。日本は再び危機をまぬがれたのです。
確かに、日本は危機をまぬがれました。元の攻撃を退け、独立を保ったからです。多くの歴史書にもそのように書かれています。しかし、元軍の通り道にあった壱岐などの島は、元の兵士の二度にわたる残虐行為(ざんぎゃくこうい)によって筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい被害を受けました。捕まった男性は残らず命を奪われ、女性は元の船に連れて行かれました。こういったことが繰り返された結果、島の人口はなんと一時期65人にまで減ってしまった、という記録もあります。そして、ここから先はここに書くのもためらわれるのですが、連れ去られた女性たちは両手に穴を開けられ、そこに紐(ひも)を通されて生きたまま船の脇にぶら下げられました。こうしておけば日本の兵士は元の船へ矢を撃てないだろうという考えからです。つまり、元の兵士の盾にされたわけです。
こういった残虐行為の傷跡は、島内の随所に残っています。例えば、元の兵士から逃れるために島民が掘った隠れ穴。あるいは、元軍によって殺された人々を弔うおびただしい数の供養塔・・・。これらの遺跡は、「日本は危機をまぬがれた」といった見方が、飽くまでも日本本土(本州・四国・九州)を中心にしたものでしかないことを、誰よりも雄弁(ゆうべん)に物語っています。
日本軍と元軍とが戦った古戦場は、今ではのどかな田園に姿を変えています。しかし700年前には、日本軍、元軍を問わず、ここでたくさんの命が失われ、多くの人の無念の思いが、稲の穂に宿る露(つゆ)のようにはかなく散っていったのです。故郷の島を枕(まくら)に死んでいった日本軍の兵士にとっては、島を守れなかった悔しさ、故郷を踏みにじられる無念があったことでしょう。異国の地で死んでいった元軍の兵士にとっては、故郷に残した家族や友達、あるいは恋人など、様々な人たちへの思いが胸をよぎったことでしょう。
時の流れは優しく、そして残酷なもの。それらの思いを時間は淡々(たんたん)と洗い流して、今は目の前に、ただただ穏やかな田園が広がるばかりです。往時(おうじ)をしのばせるものはただ、時折強く田を吹き渡る風の、悲鳴に似た叫び声だけ。それすら聞き留める人の無いまま、嵐を迎えて荒れ狂う海の音に、力無く打ち消されてしまうのです。
【固い豆腐】
もともとの私の計画では、壱岐を巡ったあとで、韓国との国境の島である対馬(つしま)へと渡るつもりでした。しかし、台風の影響で船も飛行機もすべて欠航。結局、3日間も島に閉じ込められてしまいました。
しかし、天気を恨むわけにもいきません。逆に、こんな時だからこそ見られる島の風景もあるはずだと考え、私は改めて島を巡ることにしました。
例えば、壱岐滞在2日目の午前中に道をたずねたある神社。宮司さんはお留守で、奥様が対応してくださいました。宮司さんは、翌日に神社の集会があるとのことで、福岡に行かれていました。しかし、福岡に行くのであれば集会の前日に壱岐を出れば充分間に合います。この神社の宮司さんは、台風接近のニュースを聞き、3日前に壱岐を発って福岡に向かわれたのだそうです。その分、福岡での宿泊費なども余分にかかってしまいます。交通の便の限られた離島の大変さが伝わってきました。
はたまた、同じ日の午後に訪れた島唯一の大型スーパー。スーパーに入って商品棚を見た私は、非常に驚きました。商品が、ほとんど無いのです。台風で島が孤立しているために九州などからの商品が入って来ず、このような状態になってしまったわけです。つい、東日本大震災後のスーパーの光景を思い出してしまいました。
今回、神社やスーパーなどで島の生活の大変さを垣間見ることができたのは台風に吹き込められたおかげ。非常に勉強になりました。逆境も、いい勉強の機会ととらえてしまえばこっちのもの。要は心の持ちようです。
もっとも、スーパーには島で生産している商品はふんだんに置かれていました。その一つが壱岐の伝統食品である壱岐豆腐。無類の豆腐好きである私は、壱岐を訪れたら絶対に食べようと心に決めていた食べ物です。当然迷わず購入。スーパーの外のバス停のベンチで、醤油をかけて食べました(皆さんは真似しないように!)。
壱岐豆腐の特徴はその固さ。豆腐の濃度が非常に濃いので、固くしっかりしています。どのくらい固いかというと、豆腐を紐でしばって持ち運べるほど。私も、食べている最中に割り箸が折れそうになりました。また、濃くて固いだけあって味はとても濃厚で、食感は少しボソボソした感じ。非常に素朴(そぼく)な味わいです。
100円ショップで買った紙皿に豆腐を置いて食べていたのですが、食べ進むにつれて当然皿は軽くなります。そして、半分ほど食べたところで皿は強風にあおられ、無情にも豆腐は地面に落下。風の勢いでそのままゴロゴロ転がっていきました。普通の豆腐であれば当然割れてしまうところですが、そこは固さが売りの壱岐豆腐。まったく割れません。伝統食品の意地を見せつけてくれました。

そうこうしているうちに、今日の宿泊地へと向かうバスがやってきました。明日、天候が回復していれば私は無事博多港へ、そして自宅へと帰ることができます。
そして翌日。波は高いものの、風も雨もやみ、無事船は博多港へ向けて出航しました。海はとても荒れていて、船内では立っていられないほどです。
船酔いを恐れた私は、風に当たるために甲板(かんぱん)に出ました。そして、遠ざかる壱岐の島影を見つめ、貿易にたずさわった一支国の人々や、博多へ向かう元の兵士たちも、きっと同じ光景を見ていたのだ、という感慨に打たれながら島を後にしたのでした。

<今月の問題>
1.
A.宇治 B.嬉野 C.指宿 D.狭山

2. 静岡の牧ノ原と同様、小手指のお茶畑にも、大きな扇風機のような機械がたくさん設置されていました。この機械の名前は何でしょうか?(ヒントは、FCだより7月号)
 A.乾燥ファン B.防霜ファン C.防虫ファン D.防水ファン

3. 武士が、戦に使う矢を入れて背中に負う道具を何というでしょう?
 A.せびら B.かぶら C.やびら D.えびら

【7月号解答】
1. 牧ノ原の開拓の際、幕臣たちのリーダーを努めたのは中条景昭(ちゅうじょう・かげあき)という人物でした。彼は、開拓と茶の栽培に命をかけることを誓い、その決意を、「自分は死んだら○○になる」という言葉で表しています。○○に入る言葉はなんでしょうか?
A.茶畑の守り神 B.茶畑の精(妖精) C.茶畑の土 D.茶畑のこやし(肥料)
答え→Dの、茶畑のこやし。自分の朽ちた亡骸(なきがら)を茶畑の肥料にしてくれ、という意味の遺言です。茶畑の発展にかける執念が伝わってきます。

2.徳川家と幕臣の領地から取れるお米の量は年間700万石。これは、江戸時代の人が何年くらい暮らせる量のお米に相当するでしょうか?
 A.380年 B.38000年 C.380万年 D.3800万年
答え→Cの、380万年。200×7,000,000÷365=約3,800,000です。

3.現在、浜岡原発があるのは御前崎市ですが、市町村合併で御前崎市ができる前は浜岡町という名前でした。では、浜岡の名の由来はなんでしょうか?
 A.浜松市と静岡市の中間なので一字ずつ取った B.浜辺に岡(砂丘)があるから 
C.昔、この地域を治めていたお殿様の名前が浜岡さんだったから
答え→Aの、浜松市と静岡市の中間なので一文字ずつ取った、が正解。こういう地名は結構多く、例えば朝霞市と志木市の間にある「朝志ヶ丘(あさしがおか)」や、東京都豊島区と多摩地区(東京西部)の中間にある東京都中野区「豊玉(とよたま)」など、挙げればきりがありません。

◆応募資格:スクールFC・西郡学習道場・個別会員および会員兄弟・保護者
◆応募方法:「問題番号と答、教室、学年、氏名」をお書きになり、「歴史散策挑戦状係行」
      と明記の上、メールまたはFAXでお送りください。なお、FCだよりにて当
選者の発表を行いますので、匿名を希望される方はその旨をお書きください。
◆応募先:Mail address :t-kanou@hanamarugroup.jp 
FAX :048-835-5877(お間違えないように)
◆応募締め切り:2011年 10月 30日(日) 21:00