にっぽん風土記 -佐久-

『にっぽん風土記 -佐久-』

こんにちは。今回の「にっぽん風土記」で訪れたのは長野県の佐久(さく)市。南北に長い長野県の真ん中あたりに位置し、群馬県との県境を構成している地域です。

【☆型の校庭】
佐久市の中の臼田(うすだ)という場所に、田口小学校という学校があります。この小学校は、おそらく全国唯一の、☆型の校庭を持つ学校です。
☆型の校庭だなんて、おしゃれだと思いませんか?でも、実はこの校庭、おしゃれのために☆型にしたわけではないのです。田口小学校が建つ前、ここにあったのは実はお城。それも、☆型の敷地を持つお城だったのです。お城の名前は龍岡(たつおか)城といい、江戸時代の終わりに近い1864年に、松平乗謨(まつだいら・のりかた)というお殿様によって築城が開始されました。小学校は、その龍岡城の跡地に建てられたために校庭が☆型になっているのです。
実は、☆型のお城は日本には二箇所しかありません。今までの日本にはない、新しい形式のお城だったのです。では、もう一箇所はどこでしょうか?それは、有名な函館の五稜郭(ごりょうかく)。明治二年に、戊辰戦争の最後の戦場になった場所で、北海道有数の観光地として知られています。
ちなみに、五稜郭の稜というのは菱(ひし)形のことで、郭というのはお城のこと。つまり、五稜郭とは五つの菱形でできている城という意味です。菱形が五つだと☆型になりますね。その意味では、ここ臼田の龍岡城も規模は函館に比べて小さいものの立派な五稜郭なのです。
小学校の校庭には自由に出入りできるようになっていて、城跡の見学に支障が生じることはありませんでした。校庭の周囲には堀と石垣がめぐらされていて、ここがかつては城であったことを静かに主張しています。堀と石垣に沿って校庭を一周すると、それが☆型であることがわかるはずです。でも、どうせなら上空から☆型をしっかり確認してみたい、そう思うのが人情というもの。私も強くそう思いました。

【地上の星】
 そこで私は、龍岡城の北側にある山に登ることにしました。実はこの山も、戦国時代(1460年ころ~1580年ころ)に作られた山城で、その名を田口城といいます。
 龍岡城の北の山、田口城跡の頂上までやってきました。途中の道はほとんど獣道(けものみち)で、熊が出ないかと心配でしたが、幸い彼らに出会うことはありませんでした。
 この田口城自体も立派な山城で、そこかしこにその遺構が残されているのですが、今日は龍岡城優先。龍岡城の☆型がしっかり確認できるベストスポットを探すことに専念しました。
 足場の悪い中、倒木を踏み越え薮(やぶ)を突っ切り格闘すること数十分。ついに私はベストスポットを発見しました。
 眼下に広がる佐久の野に、はっきり浮かび上がる地上の星。校庭の周りにめぐらされた堀が☆の輪郭をきれいにかたちづくって、それは本当にはっきりと見て取れました。
 
【☆型のメリット】
 眼下の龍岡城を見下ろしながら、私は☆型の城の意味について考えてみました。
 そもそも☆型の城が生まれたのは、1500年代のヨーロッパ。イタリアで生まれ、フランスで発展しました。17世紀(1601年~1700年)の後半には、フランスの軍人であり学者でもあるヴォーバンにより、その完成度を究極まで高められたため、☆型の城をまとめて「ヴォーバン式要塞(ようさい)」と呼ぶこともあります。
 では、なぜわざわざ☆型にする必要があるのでしょう?
その答えは「死角」を無くすため。どの方向から敵に攻められても、確実に反撃できる形が☆型なのです。下の図①~③を見てください。

①~③それぞれが城だとします。城に向かう矢印は敵の攻撃進路、城から出ている矢印は城からの銃や大砲による反撃を表します。城に攻めてきた敵に対して、銃や大砲などで離れた地点から反撃する場合、例えば①や②の形の城だと、斜線部分が死角、つまり攻撃できない部分になってしまいます。銃も大砲も、真横に向かっては撃つことができません。なぜなら、城壁から思い切り身を乗り出して撃つ必要があるからです。これでは逆に攻め寄せた敵に狙われてしまいます。ですから、①や②では、死角が生じるのです。一方、③の形であれば、死角が生じることはありません。また、方向の異なる複数の地点から一箇所の敵を同時に攻撃することができます(このことを、専門用語で十字砲火=クロスファイアと言います)。つまり、どこから敵に攻め込まれようと、効果的な反撃が取れる完璧な形が☆型なのです。この思想に基づいて、龍岡城も函館の五稜郭も築城されました。
 ちなみに、ヨーロッパには数多くの☆型の城が残っています。また、その規模も様々で、街全体が☆型の城壁にすっぽり囲まれているほど大きなものまであります。私が以前訪れたオランダのナールデンという街やルクセンブルクの首都であるルクセンブルク市も、街全体が☆の中にあります。これらは、街が一つの大きな城=要塞(ようさい)になっている例です。そして、規模の点では及ばないものの、龍岡城も函館五稜郭ももとにしている築城理論はこれらの都市と共通なのです。

【龍岡城の弱点】
しかし、ヨーロッパ式の完璧な☆型の理念を取り入れて築かれた龍岡城ですが、私としては、残念ながらあまり実戦的な城とは言えないように思います。このことは、田口城址から龍岡城を見下ろし、周囲の様子をうかがうと痛烈に感じることになるはずです。
龍岡城の北側には、今私がいる田口城跡があり、南にも同じくらいの高さの山があります。つまり、龍岡城は二つの山に南北から挟まれているのです。
先ほど述べたように、龍岡城が築かれたのは明治時代目前の1864年。この時代の戦争の主役は銃と大砲です。もし、田口城跡に大砲を運び上げたらどうでしょう。眼下に龍岡城が良く見えると言うことは、ここから大砲で狙(ねら)い撃ちし放題ということになります。南側の山も同様です。ということは、龍岡城を守るためには、南北の山を敵に取られないように軍を配置する必要があるわけです。当然、龍岡城自体も守る必要がありますから、結局は軍を三つに分けなければなりません。つまり、力が三分され、それぞれの部署が手薄にならざるを得ません。一箇所ずつ攻撃されたらひとたまりもないでしょう。このような意味で、私は龍岡城は実戦的ではないと考えるのです。
☆型が威力を発揮するのは、直接城に攻め込んできた敵に対してであり、こちらの砲弾が届く場所にいる敵に対してです。山の上に陣取られてしまってはこちらの砲弾は届きません。そこから大砲を撃ち込まれてしまっては手も足も出ないのです。ですから、せっかく☆型の城を築くのであれば、狙い撃ちの拠点にされてしまうような山の近くを避け、平原の中にすべきなのです。もっとも、日本は平原が少なく、山地や丘陵(きゅうりょう)地がほとんどですから、☆型の城というのは本来あまり日本向きではないのかもしれません。そう考えると、この形式の城が平原の多いヨーロッパで発達したのも頷(うなず)けるというものです。ちなみに函館五稜郭も、南側にそびえる函館山を敵軍に取られてしまい、そこから大砲を撃ち込まれることで落城してしまいました。
もしタイムマシーンがあるならば、龍岡城を築こうとしている松平乗謨のもとに行き、「場所を変えたほうが良いですよ!」と忠告できるのですが、当然それは不可能です。もったいないなあ、と思うのですが、こればかりは仕方ありません。

【松平乗謨】
 しかし、幸いにして龍岡城が実戦にさらされることは結局ありませんでした。時代は江戸から明治へと激しく変転し、日本各地で多くの犠牲が払われることになりましたが、ここ臼田の地に戦火が及ぶことはなく比較的平穏(へいおん)な空気の中で新しい時代を迎えました。そして、龍岡城も城としての役目を終えたのです。
 さらに、龍岡城を築いた松平乗謨も新たな道を歩き始めます。その新たな道とは、社会福祉でした。
明治10年(1877年)、士族(元武士の人たち)による明治新政府への反乱である西南戦争が起こります(リーダーは西郷隆盛。受験生の皆さんはしっかり覚えておきましょう)。この時、政府軍や反乱軍の区別無く負傷者を救護し治療する組織が誕生しました。その名も博愛社。後の日本赤十字社です。そして、この博愛社を設立した中心人物こそが松平乗謨なのです。
まさに日本の社会福祉のさきがけとしての役割を果たした乗謨ですが、もともとは江戸幕府の首脳として活躍した人物でした。28歳の若さで老中(ろうじゅう:今の日本で言えば、大臣にあたります)や、陸軍総裁(りくぐんそうさい:幕府陸軍の最高司令官です)といった重要ポストを歴任し、将来の幕府を背負って立つ人材と目されていました。しかし、その二年後に明治維新によって幕府が消滅。乗謨は、そのあふれる才能を活かす新たな道を探すことになります。それが、社会福祉だったのです。
乗謨はお殿様だったころから社会福祉に大いに関心を持ち、福祉政策を熱心におこなっていたようです。その証拠に、自分の領地で飢饉(ききん:米などが不作になること)が発生した際、餓死者が出るのを防ぐために領民に食料を配給し、結局一人の餓死者も出さなかった、という逸話などが残っています。また、乗謨が龍岡城を築いて引越しをすることが決まった際、乗謨を慕(した)う領民からは「引越しを思い直してほしい、いつまでもここにいてほしい」という嘆願書が出されたほどだといいますから、その福祉政策は的を射たものであり、領民の支持を集めるものでもあったのでしょう。
そんな彼が、明治という新しい時代の中で社会福祉に自分の生きる道を見出し、博愛社の設立に携わったのは自然な流れだったのかもしれません。

【博愛社】
 さて、後の日本赤十字社である博愛社についてですが、「敵味方の区別なく負傷者を救護する」という博愛社の精神は、当初は世間に受け入れられませんでした。政府に博愛社設立を嘆願しても却下。敵も助けるとはけしからん!というわけです。しかし、同志である佐野常民(さの・つねたみ)の奔走(ほんそう)によって博愛社の設立は結局認められ、佐野常民が社長、乗謨は副社長に就任しました。この時、乗謨は元お殿様という立場を活かし、同じく元大名の人たちや元貴族の人たち、つまりお金持ちの人たちを説得して博愛社設立のための資金集めに奔走したといわれています。
当時はまだ明治時代になったばかり。幕末の混乱の記憶も新しく、九州は西南戦争のまっただ中。人々の気持ちもまだまだ荒れて殺気立っていました。そんな時代に博愛社を設立し、人道・公平・中立・奉仕などの精神を日本人や日本の社会に植えつけたことは、日本を本当の意味での近代国家に成長させる上で非常に大きな意味があったと言えるでしょう。ひいては、日本が国際社会で文明国・先進国として認められていく一つの契機になったとさえ言えると思います。なぜならこれらの精神は、当時のヨーロッパにおいてもまだまだ未成熟で社会に根付いていないものだったのですから。そう考えた時、日本の近代史に対して乗謨が果たした役割は非常に大きく、もっと評価されて有名になってもいい人物であると思います。

 実用性はともかく、日本に二つしかないヨーロッパ式の☆型の城として龍岡城を築いた乗謨。そして、世界最先端の思想によって博愛社を設立した乗謨。彼は、日本の最先端、世界の最先端を目指し、そこに挑戦し続ける姿勢を持っていました。今も輝き続ける龍岡城という星は、乗謨の飽くなきチャレンジ精神の象徴といってもいいのかもしれません。

さて、今回の「にっぽん風土記」はここまで。
再び獣道を踏んで山を降りると、かつての龍岡城である田口小の校庭で、お父さんと子どもがキャッチボールをして遊んでいました。その後半生を平和に懸けた乗謨の城にふさわしい、とてもおだやかでのどかな光景です。この光景に彼もきっと目を細め、満足しているであろうという温かな気持ちに包まれながら私は、秋の信濃路を帰宅の途についたのでした。

<今月の問題>
1. 今回私が訪れた佐久市では鯉の養殖が盛んで、鯉料理は市の名産となっていますが、佐久市は通常の養殖のほかに、変わった場所で鯉の養殖をしていることでも知られています。いったいどこで養殖をしているのでしょうか?
A.温泉 B.水田 C.地下の水路 D.流れるプール

2. 佐久市にある佐久総合病院では、病院には珍しいある行事があることで有名です。その行事とは?
 A.病院運動会 B.病院祭り C.病院のど自慢大会 D.体験入院

3. 松平乗謨とともに博愛社の設立に尽くし、その社長となった佐野常民は、日本で最初にあるものがつくられた時、その責任者であったことでも有名です。そのあるものとは?
 A.汽車 B.観覧車 C.飛行船 D.蒸気船

【10月号解答】
1. 小手指はお茶の産地としても有名です。小手指で栽培されているお茶は通常、○○茶として市場に出回っています。○○に入る地名は何でしょう?
A.宇治 B.嬉野 C.指宿 D.狭山
答え→Dの、狭山茶。所沢市の隣が狭山市で、その周辺でとれるお茶が狭山茶と呼ばれます。

2. 静岡の牧ノ原と同様、小手指のお茶畑にも、大きな扇風機のような機械がたくさん設置されていました。この機械の名前は何でしょうか?(ヒントは、FCだより7月号)
 A.乾燥ファン B.防霜ファン C.防虫ファン D.防水ファン
答え→Bの、防霜ファン。大きな扇風機でお茶畑の空気をかきまぜ、冷気が畑の下のほうにたまって霜を発生させるのを防ぎます。

3. 武士が、戦に使う矢を入れて背中に負う道具を何というでしょう?
 A.せびら B.かぶら C.やびら D.えびら
 答え→Dの、えびらです。これは本文中に書かれていますね。

◆応募資格:スクールFC・西郡学習道場・個別会員および会員兄弟・保護者
◆応募方法:「問題番号と答、教室、学年、氏名」をお書きになり、「歴史散策挑戦状係行」
      と明記の上、メールまたはFAXでお送りください。なお、FCだよりにて当
選者の発表を行いますので、匿名を希望される方はその旨をお書きください。
◆応募先:Mail address :t-kanou@hanamarugroup.jp 
FAX :048-835-5877(お間違えないように)
◆応募締め切り:2011年 11月30日(水) 21:00