にっぽん風土記 -大多喜-

『にっぽん風土記 -大多喜-』

こんにちは。今回の「にっぽん風土記」で訪れたのは千葉県の大多喜(おおたき)町。房総半島の南部に位置する山間の城下町です。

【本多忠勝】
大多喜は、戦国時代に活躍した本多忠勝(ほんだ・ただかつ)という人物がその基礎を築いた城下町です。町のシンボルである大多喜城は町の東部に位置し、白亜の天守閣が山と渓谷で構成されるのどかな南房総の景色をきりりと引き締めています。街はその東側に広がり、さらにその東側を夷隅川(いすみがわ)が街を包むように蛇行しながら流れています。
街の基礎を築いた本多忠勝は、徳川家康(とくがわ・いえやす)に仕えた武将で、徳川四天王(とくがわしてんのう)の一人として知られています。徳川四天王とは、徳川家康の家来の中でも特に能力の優れていた四人の武将をたたえて呼ぶ名前で、本多忠勝以外のメンバーは、酒井忠次(さかい・ただつぐ)、榊原康政(さかきばら・やすまさ)、井伊直政(いい・なおまさ)の三人です。本多忠勝は、その四天王の中でも特に戦いが強かったことで有名で、味方からも敵からも非常に尊敬を集めていた武将でした。
しかし、彼は戦いに強かっただけではありません。政治面でもその手腕を発揮します。城の規模拡張や街の設計などを行い、その後の大多喜の街の発展の土台を築きました。

【忠勝の兜】
現在、大多喜城跡には天守閣が建っていますが、これは江戸時代の書物などを参考にして昭和50年に復元されたもの。内部は、歴史資料館として利用されています。城跡を訪れた私も、もちろん内部の資料館を見学しました。
中に入って、真っ先に目に飛び込んできたものは、本多忠勝が使っていた兜(かぶと)の複製。彼の兜は非常に個性的なデザインで、大きく太い鹿の角(本物の鹿の角ではなく、紙と漆で作られています)がその両脇に堂々と立ち、真ん中の額の部分には鬼の飾りが付いています。そして全体の色味は深い黒。とても勇ましく強そうな兜です。戦場で出会ったらさぞ恐ろしいことでしょう。兜の脇には「ご自由に着用して記念写真をお撮りください」という標識がでていたので、迷わずかぶりました。感想は、ただただ「重い!」。想像以上でした。私は小中高と剣道をやっていて面などの防具の重さには慣れていましたから、ある程度の重さは予想していたのですが、彼の兜の重さはそれを大きく上回っていました。お言葉に甘えてセルフタイマーで写真を撮ろうとするのですが、首を真っすぐに維持するだけで精一杯。この兜をかぶって戦場を駆け回るのは、プロレスラー並みの強靭(きょうじん)な首の筋肉が必要でしょう。また、こんなに目立つ兜をかぶっていては、敵の攻撃の目印になってしまうでしょうし、大きな鹿の角は木の枝や旗などにひっかかりそうです。重さでぐらぐらする頭の中で、本当に実戦でこの兜は使えたのだろうか、という疑問が湧き上がります。戦国時代の武将は日ごろから武芸に励んでいたから重い兜をかぶっても自在に戦えるだけの力があったのか、はたまた、このような見栄えの良いカッコいい兜は、あくまで飾りであって、実際に戦う際にはもう少し実戦向きの軽くて動きやすいものを身に付けていたのか、今回の試着のみでは結論は出ず、謎は深まるばかりでした。

【異国からの客人】
 本多忠勝はその後、大多喜から三重県の桑名(くわな)に領地が変わります。大多喜を領地として受け継いだのは、彼の次男である本多忠朝(ほんだ・ただとも)。父に劣らず勇敢で、戦いにも強く、そして大多喜の発展にも力を尽くした武将でした。
 彼が大多喜を治めていた1609年、ある事件が起こります。メキシコ生まれのスペイン人貴族で、フィリピンのマニラを植民地として支配していたドン・ロドリゴという人物が、マニラから故郷であるメキシコのアカプルコへ帰る航海の途中で嵐に見舞われ、大多喜に程近い御宿(おんじゅく)の海岸に漂着したのです。御宿の住民はロドリゴ一行の救助に力を尽くし、373人中、317人を救出。ロドリゴも一命を取り留めます。そして、その地の領主である本多忠朝は彼らを大いに歓迎し、いたわり、忠朝とロドリゴは面会も果たしました。その際、忠朝は西洋風にロドリゴの手の甲にキスをして挨拶した、という逸話も残っていて、漂流によって異国に流れ着き、心細い思いをしているであろうロドリゴの心を慰めようという、彼の温かい心遣いを感じさせます。また、我々が戦国時代の武士に対して抱きがちな、堅苦しくて威張っていて豪快、というイメージとはかけ離れた、優しくて社交的でお茶目な彼のキャラクターが伝わってきます。こういった逸話が残っていることから見ても、どうやら忠朝という人は、ただ強いというだけの武将ではなかったと言えそうです。
 ロドリゴは、忠朝の紹介によって徳川家康との面会も行い、翌年には新たに建造した船によって無事に故郷メキシコへと帰ることができました。このことがきっかけとなって日本とメキシコとの交流が始まり、両国は使節の遣り取りなどもおこなうようになりました。伊達政宗(だて・まさむね)がメキシコに送った支倉常長(はせくら・つねなが)などもその一例です。

【忠朝の最期】
 しかし、そんな心優しい忠朝に悲劇が訪れます。忠朝は、1614年に徳川家康が大阪の豊臣氏を滅ぼすべく起こした戦いである大阪冬の陣において、酒を飲んで寝ていたところを敵に攻撃されて大損害を出すという大失態を演じてしまい、家康から激しい叱責(しっせき)を受けることになりました。このことを深く恥じた彼は、禁酒を決意。翌年に起きた大阪夏の陣では汚名返上のためにすすんで戦いの最前線に突入しました。忠朝に立ち向かうのは毛利勝永(もうり・かつなが)。有名な真田幸村(さなだ・ゆきむら)と並んで、大阪方最強をうたわれた武将です。激戦の中で忠朝は奮闘しますが、敵に囲まれてついに戦死。そして、その死の間際、息も絶え絶えの中でこう言い残したといわれています。「気を付けなければいけないものは、酒である。今後、自分の墓にもうでる者は、必ずや酒嫌いになるだろう」。
 彼の墓は、大多喜町の南部の良玄寺(りょうげんじ)に、父・忠勝と母の墓と並んで建っています。彼の残した言葉の真偽の程は定かではありませんが、彼の墓の周囲は広々として明るく、彼の墓所としてふさわしいように思われました。異国からの漂着者にキスをしたり、酔っ払って失敗をしたり……。その最期は悲劇的ではあるものの、彼の人柄はどこか憎めず愛嬌があって、まるで彼の領地である南房総の、明るく陽性の光景そのままのように感じられたからです。

【日墨修好通商条約】
時は流れて1888年(明治21年)。日本とメキシコとの間に、日墨修好通商条約(にちぼくしゅうこうつうしょうじょうやく)が結ばれました。日本とメキシコが対等な条件のもと、お互いに仲良く付き合っていこうという条約です。なお、この条約の名前に入っている「日」は日本、「墨」はメキシコを表します。
当時、日本が諸外国と結んでいた条約は、不平等条約ばかりでした。そのほとんどが、日本に不利で、諸外国にとって都合のいい内容のものばかりだったのです。そのため、当時の日本政府は、不平等条約の改正、つまり、平等な条約を結びなおすことに躍起(やっき)になっていました。しかし、その願いはなかなか実現することなく、各国との条約改正の交渉は行き詰りを見せていました。そんな状況の中、日本が初めて外国と結んだ完全に平等な条約が、日墨修好通商条約だったのです。
条約を結んだ際の日本側の代表は陸奥宗光(むつ・むねみつ)。まさに、諸外国との不平等条約改正を、中心になって進めていた人物です。この時期、メキシコと完全に平等な条約を結ぶことに成功したということは、他の諸国との条約改正を進める上で非常に大きな力となったことは疑いありません。「メキシコも結んだのだから」と、他の国も足並みをそろえることが期待できるからです。事実、その通りになりました。この条約が結ばれたことを皮切りに、憲法発布・帝国議会の開催などに象徴される日本の政治制度の進歩、日清・日露戦争における日本の勝利などもあいまって、諸外国は日本の実力を認めざるを得なくなり、条約改正へと事態は進んでいったのです。
 では、なぜ真っ先に、日本とメキシコとの間に平等な条約が結ばれたのでしょうか。
それは、両国がお互いの古い付き合いを認め合っていたからなのです。そして、その古い付き合いの始まりこそが、本多忠朝とドン・ロドリゴとの交流でした。
しかし、嵐によって巡り会った自分たちの交流が、まさか300年後の両国の仲を取り持つことになろうとは、彼らも夢にも思っていなかったことでしょう。「歴史って、人間って、不思議で面白いもんだねえ」と、二人はあの世で酒でもくみ交わしているでしょうか。それとも忠朝は律儀(りちぎ)に禁酒を貫いているのでしょうか。

二人の交流から始まった日本とメキシコとの友情を記念して、ロドリゴ一行が漂着した御宿の海岸近くの高台に建てられたメキシコ記念塔を仰ぎ見ながら私は、歴史の面白さにまた一つ触れた気がして、はるかメキシコへとつながる太平洋を右手に見ながら、温かな気持ちで家路に就いたのでした。

 

<今月の問題>
1. 本多忠勝が使っていた槍は、切れ味抜群で知られていました。その槍の異名とは?
A.兜斬り B.霞斬り C.蛙斬り D.蜻蛉斬り

2.大多喜町は、ある有名な漫画家が数多くの作品の舞台としたことでも知られています。その漫画家とは?
 A.水木しげる B.横山光輝 C.つげ義春 D.さいとうたかを

3.ドン・ロドリゴが漂着した御宿海岸ですが、この辺りはある有名な童謡が生まれた場所として有名です。その童謡とは?
 A.月の砂漠 B.我は海の子 C.大きな栗の木の下で D.春が来た

【11月号解答】
1. 1. 元寇の際、元軍は日本軍が持っていない兵器を使っていました。その兵器とは何でしょうか?
A.くさりがま B.ヌンチャク C.毒矢 D.火矢
答え→Cの、毒矢。他にも、火薬を利用した武器なども使用していました。

2. 壱岐は、ある自然現象に名前が付くきっかけになった地です。その自然現象とは何でしょう?
 A.梅雨 B.春一番 C.空っ風 D.木枯らし
答え→Bの、春一番。江戸時代の1859年、壱岐の郷ノ浦の漁民が乗っていた漁船が強風によって転覆し、53人の死者が出ました。郷ノ浦では、春に吹く強風を「春一」と呼んでいて、この事故をきっかけにその方言が春一番と名を変えて全国に広まっていったそうです。

3. 壱岐は、九州の北にある島ですが気候は温暖です。では、何が影響して壱岐は温暖な気候になっているのでしょうか?
 A.偏西風 B.海底火山 C.温室効果ガス D.対馬海流
 答え→Dの、対馬海流です。壱岐、対馬付近を北西に流れる対馬海流は暖流ですから、その影響で壱岐、対馬は温暖な気候になっています。

◆応募資格:スクールFC・西郡学習道場・個別会員および会員兄弟・保護者
◆応募方法:「問題番号と答え、教室、学年、氏名」をお書きになり、「歴史散策挑戦状係行」
      と明記の上、メールまたはFAXでお送りください。なお、FCだよりにて当
選者の発表を行いますので、匿名を希望される方はその旨をお書きください。
◆応募先:Mail address :t-kanou@hanamarugroup.jp 
FAX :048-835-5877(お間違えないように)
◆応募締め切り:2011年 12月 28日(水) 21:00