西郡コラム 『たかが犬、されど命』

『たかが犬、されど命』2011年12月

子どもと妻が犬を飼いたいと言い出した。私は動物を飼ったことがない。ただ、一度だけ、小学生の時、犬を飼いたいと言ったら、父がどこからか犬を貰ってきて飼ったことがあることはある。が、三日もしないうちに母の激怒「あんたたちは自分たちで世話ばするというたでしょうが!」。物臭男三人(私、弟、父)の世話だけでも大変なのに、犬の世話までやらされることに母の堪忍袋の緒がすぐに切れ、犬を返す羽目になった。母は動物が嫌いだった。なにより神経質だった。

三日坊主の経験だけではないが、私もどうやら神経質なところがあるらしく、動物は苦手だ。繋がれている不自由に哀れを、癒しを動物に求める人間のエゴを、そして彼らの目を見ると何か寂しさを、感じてしまう。昔、地方都市に出かけとき時間があるので散策していたところ、近くに小さな公園兼動物園があり、ぶらりと一人で入った。そこに狭い敷地の中、一かきすれば対岸までとどくほどの小さなプールに白熊が狂気の如く泳いではまわり、泳いではまわりを延々繰り返していた。狭い空間に閉じ込められ一生を過ごす、気でも狂うのは不思議でないと自分自身を省みながら眺めていたことを思い出す。

こんなことを思い出しながら、家族の犬を飼いたいという提案に、一時の思いで犬を飼うのはよした方がいい。世話をするのは大変である。そしてなにより命を預かることになるのだから、と反対した。それでも飼いたいという訴えに、まあ、一度飼ってみればわかるだろうと承諾した。

妻の知人の知人が、子犬が生まれたので貰う人はいないか探していたのを妻が聞きつけ、子どもに話したところ飼いたいということになった。もっとも妻は子どもたちのセラピー犬として飼う思惑もあったようだ。トイプールドルとフレンチブルのかけあわせで、意図的ではなく間違えて生まれたその犬は佐賀県から連れてこられ、我が家の一員になった。子犬のかわいらしさとあどけなさ、それに親姉妹から別れさせられてきた境遇に、預かった以上はかわいがってやらねばと割り切った。

しかし、小便はする、糞はする、犬独特の臭さに食事も喉を通らない。やはり飼うのではなかったか。厄介だ。忌む。当初は、距離があった。が、その距離を子犬がうめてきた。朝起きると、ぺろぺろと私の口の周りをなめてくる。食事も喉を通らぬのに犬が口をなめる、この事実をすんなり受け入れている自分がいる。動物を飼うのに抵抗があった私が、次第に抱っこをする、頬ずりをする、自分から口をなめさせる、小便をふく、糞を捨てる、物言わぬ無邪気な子犬に頑なな心がとかされている。この子犬には、今、私たちしか“肉親”はいない。「ペットを飼うなんて」は偏見だったのか。

彼女は生後2ヶ月で我が家に来た。そして2ヵ月後、外散歩を許された。外散歩四日目、初めて私が連れて行くことになった。月曜日、朝六時、近所を一回りのはずが、私が縁石に座り、ふっと気が抜けた瞬間、子犬を繋いでいた紐が子犬の首からはらりと抜けた。あ、と慌てた私に子犬も何かを感じたらしくこちらを見た。私と犬と目が合い、私は思わず犬の名を叫んでしまった。すると犬は一目散に走り去ってしまった。走って追いかけたが、子犬といえども逃げ足は速い。後姿は瞬時に消え去ってしまった。それから、家族に連絡し一家で犬探し。探しても探しても一向に見つからない。通勤通学、行き交う人に聞いても目撃者はいない。時間だけが過ぎていく。今日は会議がある日。子犬の命と会議。会議は勘弁してもらい、欠席。朝六時過ぎから昼をまわり午後2時を過ぎていた。捜索範囲を広げ自転車で探しまわる。もうタイムリミット、授業は休むわけにはいかない。子どもたちが待っている。

授業を終え、いつもよりはやく出て帰宅したのは午後10時。そこからまた犬探し。自転車に乗って、近所中、子犬の名前を呼びながら何度も何度も回る。夜中の2時過ぎても、取り憑かれたように名前を連呼する姿に、もし近所の人が通報でもすれば、あきらかに変質者扱い。まだ子犬。一夜を外で過ごすには危険すぎる。命が危ない。それに家族。目が血走っている。犬を飼う思いは私より強い。生後4ヶ月の命、しかも家族同然になりつつある命、その命の喪失感が家族を襲っている。犬を飼うということは命を預かることと念をおした、この私の不注意が犬の命を危険にさらし、家族を落ち込ませている。事故は起こるべくして起こる。危機管理の甘さが、不幸をもたらす。犬を結んだ紐が緩むことは想像できた。大丈夫だろうという安直さが犬と家族の不幸を招いた。自責の念。出てきてくれ、出てきてくれと神にも祈る気持ちで探し回った。翌朝5時起床、捜索再開。昨夜作った犬の写真入りの貼り紙を持ち、近所のコンビ二、郵便局、理容店、漢方薬局、不動産屋等々に貼り紙を貼らせて貰う。焦燥の中にも人の温かさを感じる。しかし、またもタイムリミット、授業に出る。

そして近所の一人から目撃情報が入る。私は授業で動けないが、家族は目撃情報をもとに犬の出現場所に張り込む。授業終了後、メールを確認すると、「発見、捕獲」の文字。やった、よかった、このときばかりは無神論者のはずの私が、神様ありがとうと思わず呟く。電話を入れると「見つかった。見つかった」子どもの半泣き声が返ってきた。ただただ安堵。

今年は、震災でライフラインが途切れる経験をした。そして、犬の脱走に命の尊さを思い知らされた。たかが犬、されど我が家にとって“家族の命”になっていた。生活と命の尊さ、そして自分自身を振りかえる、貴重な一年となった。