にっぽん風土記 -お台場-

『にっぽん風土記 -お台場-』

こんにちは。今回の「にっぽん風土記」で訪れたのは東京のお台場(おだいば)。テレビ局やショッピングモールなどが立ち並び、デートスポットとして有名なお台場ですが、今回はその本来の姿を探るため、バレンタインデーを間近に控えたカップルでにぎわう中、一人黙々と散策してきました。

【品川台場】
 まず、「お台場」という名前についてですが、その由来はご存知でしょうか?実は、お台場というのはもともと地名を表す固有名詞ではなく、大砲が置かれた砲台を表す普通名詞でした。砲台があった場所だから「台場」で、それに丁寧語の「お」を付けた名前がお台場。つまり、今の姿からは想像もつきませんが、お台場はもともとは戦争のための施設だったということになります。今回私が訪れた台場は、東京の品川周辺にあるため、正式には品川台場と呼ばれます。
 この品川台場を築いたのは日本人です。でも、台場を築くきっかけをつくった人物は、日本人ではなく、アメリカ人でした。その名はマシュー=ペリー。江戸時代末期の日本にやってきて、日本を開国させた人物としてよく知られていますね。
 1853年、ペリーはアメリカ海軍の4隻の軍艦を引き連れて神奈川県の浦賀(うらが)に来航します。当時の日本は鎖国中で、オランダ、清(中国)、朝鮮以外の国とは付き合いを持っていませんでした。ペリーは、日本に鎖国をやめさせ、アメリカとの交際をおこなうよう促しに来たのです。鎖国をやめて外国とお付き合いをすること、これが開国です。

【建設への経緯】
 ペリーから開国の要求を突きつけられた日本は、大混乱に陥ります。本来であれば、当時の日本政府である徳川幕府は、日本は鎖国中だからアメリカとは付き合えない、と言って要求を退ければよいのですが、実際にはそのような強気な態度に出られませんでした。その理由は、ペリー率いる4隻の軍艦。いわゆる黒船です。黒船は当時の日本の一般的な船の何倍もある巨大な軍艦で、強力な大砲がたくさん積まれていました。ペリーは、この強力な黒船によって脅しをかけてきたわけです。こちらの要求を受け入れなければ痛い目に遭うぞ、と。これを見た幕府は、一方的にペリーの要求を蹴るわけにもいかず、「開国について検討する時間が必要なので来年まで待ってほしい」ということをペリーに伝えます。そして、この回答を聞いたペリーは、幕府の要求を受け入れて来年再びやって来ることを約束し、一旦日本から引き上げていきました。
 ペリーが引き上げた後、幕府は日本のとるべき道を模索し、結論を導き出しました。それは「世界情勢を考えれば、日本の開国は避けられない。しかし、それは武力で脅された結果であってはならない」というものでした。脅された結果の開国であれば、対等の付き合いなどは望めないからです。しかし、そのためには外国にあなどられないだけの武力を日本が備える必要があります。来年再びやって来るペリー艦隊と渡り合い、堂々と開国するためには、そのことが何よりの急務であると考えられました。そして、そのための目玉として急ピッチで進められたのが品川台場の建設だったのです。

【江戸湾を封鎖せよ!】
 品川台場は、第一台場から第七台場までの七つの人工島として江戸湾(現在の東京湾)の入り口を封鎖するように建設されました。なぜ江戸湾の入り口に築かれたのでしょう?それは、東京湾の奥にある江戸を守るためです。幕府には、「ペリーは武力によって開国を促すために艦隊を引き連れて江戸へ迫るのではないか」という心配がありました。江戸湾を封鎖することでそれを阻止するという使命が、品川台場には負わされていたのです。
七つの台場は、現在は埋め立てによってほとんど失われていますが、第三台場と第六台場は今も人工島としてその姿を留めています。このうち、見学が可能なのは第三台場のみ。もともとは人工島ですが、台場へ渡るための細い埋め立て道路が整備されていて、ゆりかもめのお台場海浜公園(おだいばかいひんこうえん)駅から徒歩で行くことができます。
 第三台場の形は正方形です。そして、正方形の四つの辺は石垣で固められていて、その上には土塁(どるい=敵の攻撃から身を守るための土手)が設けられています。低くなっている中央部分には弾薬庫の跡などが残っていて、ここが軍事施設であったことを雄弁に物語っています。このような台場が合計七つ、江戸湾の入り口をふさぐように建設されたのです。そして、その一つ一つに、来年やって来るはずのペリー艦隊に備えるための大砲が設置されました。日本にはこれだけの武力があるんだぞ、ということをペリーに示し、もしペリー艦隊が江戸へ迫ろうとすれば、ここで食い止めようというわけです。
 この作戦は功を奏しました。予告通り翌年やってきたペリー艦隊は、武力によって開国を促すために江戸湾への進入を企てますが、突如として現れた台場の存在によってそれを断念します。台場の間を縫って無理に江戸へ迫ろうとすれば、七つの台場から大砲が一斉に火を噴くことになり、艦隊に損害が出ることは明らかです。そう考えたペリーは、江戸湾から後退して横浜へ移動したのです。そして、日本・アメリカの両国は、横浜の地で日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結ぶことになります。この条約によって日本とアメリカに国交が開かれ、平和な空気の中で日本は開国することになったのです。

【江川太郎左衛門と大場の久八】
品川台場のおかげで、日本は大きなピンチを切り抜けました。今見てきたように、品川台場を築くきっかけを作った人物はペリーでした。では、実際に台場の建設にあたったのはどんな人たちだったのでしょうか。
建設の総指揮をとったのは、江川太郎左衛門(えがわ・たろうざえもん)という人物でした。彼は伊豆の韮山(にらやま)を治める幕府の代官で、当時最先端の西洋式の科学知識・軍事知識を持つ学者でもありました。また、数多くの優秀な弟子を育てた教育者としても評価されていて、幕末の歴史に名を残した佐久間象山(さくま・しょうざん=幕末の科学者)、橋本左内(はしもと・さない=尊王の志士、思想家)、木戸孝允(きど・たかよし=政治家、明治維新の中心人物)などが彼の教えを受けて育ちました。品川台場は、彼が持てる知識を総動員して建設した西洋式の海上要塞だったのです。
江川が台場の建設工事を依頼したのは、久八(きゅうはち)という人物。彼は工事にたずさわる人足(にんそく)集めと、実際の工事において大活躍しました。久八は、実は伊豆の侠客(きょうかく=自分の腕っ節を頼りに、ギャンブルなどを取り仕切っている、いわゆるヤクザ社会の人たち)で、数千の子分を抱える大親分でした。本来であれば、社会に背を向けて生きる裏社会の人間なのですが、江川は彼に白羽の矢を立てました。身分や職業にこだわることなく、久八の男気、実力を見込んで、「日本を守る台場建設に是非力を貸してほしい」と直々に依頼したのです。久八は奮起します。お代官様の直々の頼み、日本の守りの要(かなめ)である台場の建設。侠客・久八親分の男気が炸裂(さくれつ)しました。たちまち千人以上の人足を集め、わずか8ヶ月で台場建設をやってのけたのです。
江川は久八に感謝し、是非とも代官所の役人になってほしい、と伝えました。これは、久八のような立場の人間からしたらものすごい大出世です。普通であれば大喜びで飛びつくはずの話なのですが、大いに感謝しつつも久八はこれを断ります。「自分は一介の侠客。自分のような裏社会の人間が、まっとうに生きている人様の上に立つ役人の仕事を仰せつかるわけにはまいりません。せっかくですが、たとえ死んでも、こればかりはお引き受けできかねます」。出世をあっさり棒に振る潔い態度に江川はますます感服。久八の名声はいよいよ高まり、いつしか彼は「大場(台場)の久八」の異名をとるようになりました。

【その後】
台場建設の翌年、過労がたたったのか、江川は世を去りました。55歳でした。その後、時代は激しく変転し、13年後の1868年には明治維新によって江戸幕府が滅びました。京都からは、いまだに幕府に心を寄せる人間を徹底的にやっつけようと、新政府の軍隊が江戸に向けて進んできます。新政府軍は、大場の久八が住む伊豆にもやってきました。久八は、江川が亡くなってからも、江川から受けた「自分のような人間に台場建設の大役を任せてくれた」そして「断りはしたものの、役人になるよう勧めてくれた」という恩を片時も忘れることはありませんでした。そして、伊豆に攻め込んできた新政府軍を前にして、久八の男気が再び炸裂します。恩義ある江川が勤めた代官所を守るため、子分を引き連れて新政府軍に徹底抗戦を挑んだのです。しかし、多勢に無勢。久八は敗れ、新政府軍に捕えられてしまいます。しかし、大場の久八を殺さないでほしい、という嘆願(たんがん)が相次いだため、久八は命だけは許されて伊豆へ戻ることになりました。
伊豆へ戻ってからの久八は田畑を耕して暮らし、地元の小学校建設に尽力するなど故郷の発展にその余生を費やして、1892年(明治25年)に79歳で亡くなりました。

品川台場はレインボーブリッジの真下に位置しているため、レインボーブリッジの遊歩道から、正方形の第三台場と五角形の第六台場の美しい姿を眼下に望むことができます。遊歩道から見た二つの台場は、夕日を浴びて石垣がオレンジ色に輝いていました。台場の周りに見えるのは、群れ遊ぶ水鳥と、思い思いに散策を楽しむたくさんの人たち。遠くには富士山のシルエット、振り返れば東京タワーやスカイツリーも見えました。幕末の混乱期、日本の平和を守るために築かれた品川台場。その品川台場は今、多くの人々の憩いの場として、昔と変わらず平和な日本の風景を演出し続けているのです。

さて、今回の「にっぽん風土記」はここまで。遊歩道から戻ってくるうちにすっかり日も暮れて、いつの間にか第三台場も第六台場も夜の闇に没していました。そして、水鳥の鳴き声と、行き交う船の灯りに見送られながら私は、様々な人々の想いのこもったお台場を後にして家路に就いたのでした。

<今月の問題>
1. ペリーは、体と声の大きさから、ある動物になぞらえたあだ名がありました。その動物とは?
A.熊 B.恐竜 C.象 D.鯨

2. 江川太郎左衛門は、韮山の代官を務めていた頃、西洋でおこなわれていたあることを日本社会にも根付かせました。そのあることとは?
  A.ナイフとフォークの使用 B.花を贈る習慣 C.「回れ右」などの号令 D.椅子を使う習慣

3. 江戸湾という呼び名は、江戸時代後期に生まれたもので、以前は違う呼び名でした。その呼び名は、今もある日本料理の呼び方の中に残っているのですが、その日本料理とは?
  A.てんぷら B.すき焼き C.お茶漬け D.すし

【2月号解答】
1. 素六が勤めた講武所では、講武所風と呼ばれるファッションが流行しました。そのファッションの特徴とは?
A.ちょんまげが大きい B.刀が長い C.足袋が赤い D.無精ひげをはやす
答え→Aの、ちょんまげが大きい。「おおたぶさ」と言って、大きなまげが講武所の若者のファッションの特徴でした。
2.市川は、寺が多いことから、ある街にたとえられます。その街とは?
 A.奈良 B.京都 C.鎌倉 D.長崎
答え→Cの、鎌倉。市川は古刹(こさつ=由緒のある古いお寺)が多いことから「千葉の鎌倉」と呼ばれます。
3.沼津兵学校で素六とともに教鞭をとった西周(にし・あまね)という学者は、ある日本文化の廃止を訴えていました。その文化とは?
 A.お辞儀 B.筆と硯の使用 C.室内では靴を脱ぐ風習 D.漢字と仮名の使用
答え→Dの、漢字と仮名の使用。西周は、日本の国字をローマ字にすべきだと提唱していました。こうした考えは明治時代初期には結構一般的で、西周の他にも多くの人が主張していました。西洋に追いつくためにはまず文字から真似しなければならない、という考えが支持されていたからです。それだけ、当時の日本人が抱いていた西洋コンプレックスが強烈だったということですね。

◆応募資格:スクールFC・西郡学習道場・個別会員および会員兄弟・保護者
◆応募方法:「問題番号と答、教室、学年、氏名」をお書きになり、「歴史散策挑戦状係行」
      と明記の上、メールまたはFAXでお送りください。なお、FCだよりにて当
選者の発表を行いますので、匿名を希望される方はその旨をお書きください。
◆応募先:Mail:t-kanou@hanamarugroup.jp 
FAX :048-835-5877(お間違えないように)
◆応募締め切り:2012年 3月 31日(土) 21:00