西郡コラム 『話させる』

『話させる』2013年3月

雑誌のインタビューを受けたことがある。もちろん私や学習道場の単独の取材ではない。高濱代表や花まる学習会の関連として、周辺取材としての私や学習道場の取材だ。記者は私や学習道場のことも下調べをしているから質問も要約されている。よき理解者と相対する際の安心感がこちらの警戒を解く。本音を引き出すためにも警戒心を解く。話を聞くということはこの安心感を作り出すことから始まる。実際に私が話すと、記者はじっくり聞いてくれて、一つひとつに「ああ、そうですか」「それはいいですね」「私達、大人にも通じますね」とうまい具合に合いの手を、共感と驚きを持っていれてくれる。私もそこまで聞いてくれる人がいるのなら、と次第にべらべら調子に乗ってしゃべりだす。持ち上げられ、一端の教育評論家にでもなった気分で教育論を展開する。心地よい時間でもあった。しかし、実際に掲載された記事を見ると一言のみ。お調子者の自分を知るばかり。

ここで記者への恨みを言いたいわけではなく、むしろ記者の聞き上手の姿勢は私達にこそ重要なのだと再確認させてもらった。記者を私に、私を子ども達に置きかえて考えてみると、私は、記者のように相手を理解して、どんどん話したくなるような聞き方をしているのだろうか。私が話して聞かせる時間が圧倒的に多くなっている。一方的に話している。こちらに正解は用意してあり、私の顔色も見て子ども達は話している。話したい自由は型にはめられた内容に次第に変化している。子ども達からもっと語らせる、引き出してやるだけの会話をしているのだろうか。聞き上手になることは子ども自身が話しをしたがる、なんでも話したがるようにすることだ。

もう一つの発見は、会話は、連想ゲームの如く意識下の思考を表に出す契機になる、ということだ。インタビューを受けながら、乗せられてベラベラしゃべる中で、自分はこんなことを考えているのだと、思わぬことが口から出た。決して嘘ではない、漠然と思っていることが言葉として出てきたのだ。これも一種の発想法で、一人で考え悶悶としていると思考も硬直してしまう状態を、他者からの刺激が打破してくれる。話させることは子どもの思考力を伸ばすことにもなる。

聞き上手のこつは、こちらの判断をまずは挟まないこと。あくまでも相手に言わせる。話し手はただただ聞いて貰いたいだけ、正論や反論はいらない。私に一つの教訓としていることがある。小学校の低学年時に、私は祖父に預けられた。日課は祖父と風呂にはいること。そこで一日の懺悔がはじまる。いたずら盛りの私が何をやったか告白するのだ。しかし、祖父は聞いているだけ。記憶のかなたの思い出だけに祖父の言葉はかき消されているだけかもしれないが、思い出せないのだ。ただ聞いている祖父しか残像がない。生徒の話は聞くだけでいいことがあるのだ、私の教育的な一言は邪魔、不要なのだ、と。話しただけで十分、聞いて貰う安心、まさに懺悔、話せる自由が与えられる。

当然、相手に話させることだけが聞き上手ではない。上手な会話も聞き上手の一つ。会話は、言葉のキャッチボール。自分のボール(言葉)を投げ、相手に届かせる、帰ってくるボール(言葉)を受け止める。ボール(言葉)が届かなければ、届かせられなければ、会話は成立しない。成立しないままで、コミュニケーションを済ませれば、益々言語は貧困になる。

言いたい、伝えたい思いはある。それを言葉にして真意を伝え共有するのは難しい。何が言いたいのか、指示語だけの話し方、感情的な言葉の羅列。伝える語彙がなければイライラする。そんな時も話す本人が頭の中をうまく整理することができるように話して聞く。聞き上手によって話し手は言語感覚を磨かれる。

「忘れ物がないようにしなさい」というか、「明日何があるか考えなさい(想像しなさい)」というか。その場その場の言葉かけひとつで、子どもの想像性を膨らませるか萎ませるかにまで関わってくる。子どもが考えるように言葉を届かせる。会話をする、キャッチボールをする。先ほど書いたが、自分がインタビューを受けることで会話の更なる一面、互いを刺激し思考を引き出し合うという一面を持つということに今更ながら実感した。いい会話は発想が豊かになる。

面白いから話す。ユーモアは話の潤滑油。「ね、ね、これどう解くの」に対して「私とあなたは友達ではありません」というと「うーん、先生とは友達だよ」こう切り返されたからには叱るわけにはいかない。「ありがとう、友だちでよかったよ」というしかない。機知と機知、面白がる会話もまた頭を鍛えてくれる。そして信頼関係を生む。些細な日常の会話の総体で、場の雰囲気をつくりだす。

しかし、そればかりでない。厳しい会話もある。自分の意見に反駁され、自己否定される。言葉で傷つくこともある。それで引き下がるか、引き籠るか。そこに反発し打ち勝つ自分を見出していかなければならない。肯定―否定―肯定・・・の繰り返し。生きていく上では、生易しい会話だけが待っているわけではない。厳しい現実も待っている。自分で乗り越えるしかない。自分で乗り越える訓練をする。会話もその一環、だから子どもの話は正面から聞く。

伸びないのではない、子どもは伸びる。伸ばさないのは、伸ばすすべを知らない、考えない、私達大人の問題であって、つまり想像性の欠如によるものだ。まずは、子どもが主体的にものを考え、行動するような「聞き上手」になること。