西郡コラム 『学習は、自分がどうする、からはじまる』

『学習は、自分がどうする、からはじまる』 2015年3月

ある年長さんの学習を見ていたときのこと。途中間違えたことを自分で気づくと、ちょっと考える間があって、もう一度振り返って再挑戦し、課題をクリアー、克服した。出来た後もごく自然体で普通にしている。褒められようともしない、あたりまえのことをしたといった態度だった。ほんの一瞬の出来事だったが、たとえ年長さんといえども、基本的な学習習慣がもうすでに出来ている。今、主に高学年を指導している私には、この年長さんの一連の学習態度は新鮮な驚きであった。素質というより後天的な学習、家庭環境、親の接し方。
 順調に課題をこなしていた子が、ある問題にきてつまずいた。すると、もう取り組もうとしなくなった。思考を停止させる。褒められることで学習意欲を高める、“ 外側から” の要因だけで学習意欲をつくりあげると、つまずきに拒否反応を示す。あるいは、出来ない、間違った、このことに必要以上に“ 負のイメージ”(過度に叱る、極端にガッカリした親の姿をみせる)を強く植えつけると、これまた拒否反応を示す。
 我が子の例だが、年長のときにひらがなを教えて欲しいといいにきた。教えるのも、習いにくるのもこれが初めてだった。保育園の先生が離任するので、お礼の言葉を書きたい、という。いくつか、ひらがなで簡単なお礼の言葉を書いて、これをまねして書いてみるようにいって、しばらく本人に任せた。上手く書けたときの子どもの喜びは、親の喜びでもある。だが、子どもは上手くいかなかったとき、間違えたとき、一々どうしようと言いに来る。“ 出来たい” という要求が高いのは悪いことではない。だが、どこか褒められたい、間違え、出来ないことを過剰に意識する必要はない。間違えた、出来ないことに対して誰も怒りはしない。間違えたらもう一度練習すればいいだけのこと、一度でできることはない。
 子どもに出来て欲しいと親は願う。それを知る子どもは、出来てあげようとする、親を喜ばせようとする。やさしい子に限って本能的に親の要求を感じる。褒められたい、喜んでもらいたい、出来ない自分をどこか隠しておきたい意識が働く。“ 思いやりのある” 健全な親子関係でもある。
 しかし学習は“ 孤独” な作業を一面に持つ。褒められようが、叱られようが関係ない。自分の学習は、自分でどうにかするしかない。教えもするし、叱咤激励もする。しかし、誰も助けてくれない。直面する、逃げない、自分が何とかするという意識から、本来の学習ははじまる。学習は孤独なのである。孤独であることがわかるから共有もでき、尊敬もでき、いたわりもできる。喜びもある。
 わからない、出来ないから逃げない、正面に見据える。分かる、分からない、出来る、出来ない、覚えている、覚えていない、誤魔化さず、自分の基準をもつこと。
 私自身は物覚えが悪い。よく忘れる。何でこんなに覚えないのだろうか、いい頭に生まれてくればよかった、と何度嘆いたことか、泣きたくなる。では、どうする。もって生まれたものを嘆いても、比べても仕方がないと悟ってくる。誰だってできない。頭が悪ければ、何度でも書いて覚えるしかない。眺めているだけでは覚えない。3 回書いて覚えるか、5 回書いて覚えるか、回数の問題ではなく、自分は覚えたかどうか、その審判は自分自身しかいない。さらに、頭の中で計算ができなければ、さっさと紙に書いて計算すれば速い、間違えも少なくなる。「ケアレスミスが多いのです。」という声を聞く。私自身もそう、注意欠陥。しかし、どこかで自分を許してしまっているからケアレスミスで片付けてしまう。間違えた、出来ないなら練習するしかない。ケアレスミスの頭と習慣を克服するしかない。労を惜しまず、自分の頭の出来、自分の性格と相談して自分で解決策を見出すしかない。だから、誤魔化しても仕方がない。
 コンプレックスを持つ必要もない。自分の子どもは“ 天才” であってほしいと親は誰だって思いたくなるものだが、まず“ 天才” はいない。“ 天才” と比べれば、誰だってコンプレックスをもつ。「この子はできない」。子どものコンプレックスはむしろ周囲によってつくられる。固定観念がつくる。ないものねだりはしないこと。その子の“ うち” にあるものでしかつくることはできない。
 先天的なものはどうでもいい。比較しても、嘆いても仕方がない。自分を、頭、性格、出来る出来ない、分かる分からないの軸をよく知ること。そこから、どうやればいいか、自分がどうするか、これが学習の基本。主体性の問題である。他者に依存していても、学習はすすまない。自立あるのみ。自分の頭を使うしか、方法はない。だから、大切なことは誤魔化さないこと。表面だけ取り繕っても先がないこと、成果はないことが分かってくる。評価を他者にゆだねると、見栄を張る。誤魔化しがうまれる。審判は自分自身である。自分に正直であればいい。出来ないことは、恥ずかしいことではない。学習は、出来ない、分からない、を、出来る、分かるにすることである。恥ずかしいのは、学習しないこと、何もしないことである。学習にとっての大敵は、見栄と誤魔化しである。
 順風満帆な発達はない。逆境にこそ教育のはじまりがあると思う。分からない、出来ない、だから学習なのである。「できない。わからない?よかったね、学習するところが見つかって。」決して皮肉で言っているのではなく、励ましなのである。学習の本分を見失わないようにしたい。安定志向は誰もがどっかに望んでいる、持っている。出来ない分からない不安定な状態は誰もが好まない。しかしこの不安にどこまで向き合えるか。不安定さを感知できるか。学習のやりかたが分かっていない子ほど出来ない、分からないに無神経になっている。出来ない子は出来ないがゆえに無意識的に避けているか、諦めているか、無頓着になっている。出来ていない、分からない、覚えていない不安定さを感知することが学習の第一歩。そこから学習ははじまる。それは自分で感じとるしかない。これ分からない、たぶん分かっていないな、覚えきっていない、書けないな。こういった不安を何とか解消しようとするから学習する。しかし、学べば学ぶほど不安になる。出来ない、分からないところが見えてくる。見えれば見えるほど果てしなさを感じる。絶望の話をしているのではなく、だから面白いと思えるかどうか。学習は命を削る作業を経る、それでも生き抜いてほしい。

西郡学習道場代表 西郡文啓