松島コラム 『只管朗読』

『只管朗読』 2016年2月

「只管朗読」という言葉をご存じだろうか。英会話の学習法をいろいろ試された方であれば一度は聞いたことがあるかもしれない。
 この言葉は、同時通訳の神様と言われた故・國弘正雄氏の造語である。曹洞宗の開祖・道元が説いた「只管打座」(ひたすら座禅しなさい)にかけて、「ひたすら朗読(音読)しなさい」という、今では英語学習の基本とされる方法論を世に広めた名言である。
 國弘氏というとニュースキャスターや政治家としての印象をお持ちの方もいるかもしれないが、高校時代の私にとっては流ちょうな英語を話すあこがれの文化人であった。「日本人が話すきれいでかっこいい英語とはこういう英語だ!」とラジオから流れてくる國弘氏の英語に意味もわからず聞き入っていた。幸いにも私は氏の講義を一度だけ受けたことがある。遠い昔のことなので内容はほとんど覚えていないが、その半分以上は英語の学習法だったと思う。
 氏の著書である「英語の話しかた」(1970年出版、続編1999年出版)をバイブルとしている英語学習者、教育者は今も多い。

以下、「國弘流英語の話しかた」(たちばな出版)から一部引用し、要約している。
 「只管朗読」とは、例えば中学校の教科書をひたすら最低100回以上音読を繰り返すことである。結果として覚えてしまうがあくまでも暗記が目的ではない。「読書百遍意自ずから通ず」とも違う。すでに意味がわかっているレベルの文章でよい。ひたすら音読を繰り返していくと直読直解ができるようになる。いちいち日本語に訳すという作業をしないで瞬時にイメージが浮かぶようになる。英語を母国語にしている人は後ろからひっくり返して読んではいない。そうであれば、同じように頭から順番に読んで意味がとれるレベルまで慣れることが必要である。只管朗読によってその思考回路を深く刻み込むことで、そのうちに視界がパッと開け、それまでよりも格段に速く英語を使えるようになる。「習うより慣れろ」というより「慣れるまで習え」である。そのためにも、「『単純なことを愚直に繰り返す』という意義を心でちゃんと受け止めることができるか否かがカギを握る。同じことを繰り返すなんて、飽きてしまって時間の無駄だと考えるのは普通であるが、そこを飽きない人が飛躍する。野球の素振りでも、草野球と一流のプロ野球選手の素振りでは雲泥の差がある。プロの一振りには、空気を切り裂く音が出る。足元や腰もぐらつかない。中学校の教科書を習熟度という物差しで考えてみると、学校教育で一応よしとされている程度では到底基礎としての役割は果たせていない。「基礎の習熟度において、もっと謙虚になること」が飛躍の第一歩である。以上、一部引用、要約終わり。

算数や数学の学習も同じである。基本を何十回も繰り返すことで、応用問題が解けるようになる。それは応用問題も基本を組み合わせて作られているからである。ただし簡単には気づかれないようにしてある。基礎基本の練習が足りないとそれを見つけられないから手詰まりになる。ところがひたすら反復を繰り返し、基本が体にしみこんでいれば、問題を精読し、しばし図を見ているうちに、自然と使える道具が頭に浮かんでくる。
 今年度担当した中3には、昨年の3月の最初の授業ではっきりと伝えた。「この問題集を5回繰り返せ。これ以外はやらなくていい。そうすれば、数学においてはどんな高校でも合格できるレベルになる。私を信じてやりなさい。」問題集と言っても特別なものではない。塾で全員に渡しているものである。ただし、反復学習をするうえでのコツは常々授業で伝えてきた。ノート法はもちろん、理解したというレベルとはどういうレベルなのか。答え合わせの仕方。一問をおろそかにしないことなど。
 中学受験でも同じである。8割の学習は反復学習でよい。準備期間を30ヶ月とするなら、24ヶ月は基礎基本の繰り返し、残りは志望校対策である。それがシンプルかつ最善の道である。かつて開成に合格したA君や筑駒に合格したT君は、ひたすら塾で配られた問題集を他の生徒の何倍も繰り返していた。その結果入試直前には講師が舌を巻くほどの力をつけていた。何度も繰り返すことで一つ上の境地にたどり着いたのだろう。数学や算数が足を引っ張って合格圏内に届かない生徒が、ひたすら一冊を繰り返してことで第一志望合格を勝ち得た事例は数え切れない。
 受験に限らず、仕事やスポーツ、芸術などの分野においても、ひたすら基本の習熟に徹することが遠回りのようで実は成功の近道であろう。