西郡コラム 『わが子とは言え、別の人間なのだから』

『わが子とは言え、別の人間なのだから』 2019年12月

 以前、『子育ての極意は、子離れ』というコラムを書いた。「子離れをしよう」と決意しても、愛情の裏返しで自分では気づかないうちに子どもに干渉し過ぎてしまう。親自身に自信がなく、「自分のようになってほしくない」という想いから、結果的に子どもだけが生きがいになり、子どもに手をかけすぎてしまう。「子どもを自立させましょう」という内容の講演を深く頷きながら聞いていても、その帰りに子どものカバンを持ってあげたりする。よくある話だ。
 親が子どもに依存すれば、子どもも親に逃げ込んでしまう。カバンの例で言えば、本当は子どもも自分の親にカバンを持たせることに疑問を持つはずだが、「親が喜ぶなら」から始まり、親に持たせることが当たり前になってくる。悪しきも習慣として身につく。しかも、悪しき習慣の方がはやく身につく。親と子の相互依存状態になっていても、愛情という言葉が覆うと、事の本質を見失う。“親ばか”であることは悪いことではないが、子どもへの愛情なのか、依存なのか、線引きは難しい。自分が子どもに頼ることで、子どもも自分を頼りすぎていないかという、客観的に見る視点を持ちたい。子はいずれ自立するという、俯瞰して見る目も持ちたい。
 子どもに自分の思い描く理想の姿を求めてしまいすぎると危険だ。子どもも親の望みに合わせて振る舞おうとする。子どもは親好みの“いい子”である場合が多く、親もそれに満足しているので、表面的な親子関係は良好に見える。教育情報の過多は親を早期教育へと走らせる。最初は上手くいく。子どもが喜び、入りやすいプログラムを用意している。子どもも楽しそうに、喜んでいるように見える。ときとして問題なのは「親が喜ぶから通いたい」になったときだ。親の喜ぶ顔が見たい、いい子なのだ。早期教育が悪いわけではなく、早期教育こそ、やりたい意欲、やって面白い、やりたいが根底になければいけない。早期教育のうちに「学ぶ=いやなもの」と刷り込まれると、学ぶということの本質を見失う。何かができた、上手くなった、正解した、はモチベーションを上げるため、目に見える成果を求めない方がいい。
 母親と一緒にいる子が、人に何か質問をされると、答える前に必ず母親の顔を見る。もちろん、親を信頼しているから見るという場合もあるが、子どもが何かにつけて親の顔色を気にしている。子どもが“いい子”でいるのは、母親の機嫌がよくなるからそうしているに過ぎない。思春期になり、子どもに自立心が出てくると、親が望まない行動を取る場面も出てくる。子どもが自分の思い通りの子どもでなくなったとき、母親はそのギャップに戸惑い、なぜ自分の思い通りにしてくれないのかと悩む。
 男の子に多く見られるが、母親の理解を超えた思考や行動を見せることがある。「男の子がわからない」という悩みは、男の子を持つ多くの母親に共通する。急に騒ぎだす、集中が続かない。そうしたことから苛立ってしまう、あるいは子育てがうまくいっていないのだと、自分を責めてしまう。また、周りの子の大人度に対して、あまりの幼さに恥ずかしいと見てしまい、子を責める。
 熱中できる仕事など、子育て以外に自分の世界を持っている母親は、“わからない”男の子を、いい意味で理解しようとしない。「男の子というのはそういうもの」と受け止めることのできる母親であれば、子離れもスムーズにできる。わが子とは言え、別の人間なのだから、理解しきれない部分があって当然、異性の子どもであればなおさらだ。無理に理解しようとせず、「元気でいればそれでいい」というくらいの大らかで楽観的な見方、考え方も必要なのだと思う。

西郡学習道場代表 西郡文啓