西郡コラム 『高校生に話す その二』 2020年5月

『高校生に話す その二』 

 壇上から私が一方通行で話をしても高校生は聞いてくれない。生徒は次第に下を向くか、そわそわとして、視線は虚ろう。このままでは私の話が何事もなく過ぎていってただ終わる。折角、集まってくれた生徒の 授業を講演会に充ててくれた学校の貴重な時間を無駄にしてしまう。咄嗟に壇上から降り、生徒の前に立ち、質問を投げかけた。「学校は面白い?」「好きな教科、面白いと思う教科はある?」「何か夢中になっていることはある?」「これは自信があるというものはある?」「失敗したな、という経験はある?」「高校生だから、フラれたことを話せる人はいる?」と様々な質問することで、一方的な私発信の話を避け、生徒が当事者になった話を聞きたい。学校そのものをどう思っているのか。小中学校での経験を肯定的に捉えているのか、否定的なのか。目の前にいる高校生が、いま、何を感じているのか。生徒自身の発言、そこから私の話を繋ぐことにした。兎に角、このままではいけない。危機感から生徒を揺り起こした。

 私の問いに挙手をする生徒の発言は積極的で前向きな内容が多い。好きな教科を日本史と答えた生徒に、なぜと聞くと、後ろに控える先生をちらりと見て、「よくわかるから」と答えた。生徒の先生を見る目は鋭い。先生への信頼が見て取れる。先生の好き嫌いは私たちも経験するところ。生徒に阿るのは浅はかだが、惹きつける先生がこの場、公開の場にいるのは生徒にも先生にも刺激になる。“自分にこれは自信がある”と言える人はいるかと問うと、「自分は絶対音感を持つ」と答える生徒がいた。学力を範疇にしない絶対的な基準軸を持つことは自信になる。持って生まれた能力は人それぞれ違う。“比べても仕方がないものに囚われないこと”、私の話の底はここだが、絶対音感という比較できない稀な基準を持ち出されては、他の生徒との共有の教訓とは成り難い。他者と比較しない何かを持つことは大切だと凡庸なまとめをしようとしても生徒には響かない。無難な言葉、逃げの言葉は人には残らない。

 手を挙げて発言してくれる生徒の話は前向きなため、話を広げやすく、有り難い。が、高校生のときの私のように斜に構えて、発言を嫌がる生徒、声が聞けない生徒の声を聞きたい。彼らが何を思っているのか、考えているのか。生徒の列に入り、目の前にいる生徒に「どう思う?」「話してみる?」と突っ込んでいった。多くは頑なに拒否する。中には“当てられる→拒否する→催促される”このやりとりの間を嫌い、すんなりと話し出し、しかも本音をずらして笑いで返す強者もいた。坊主頭の集団は野球部らしく、「失敗した経験があるか?」の問いに、おしっこを漏らした話をして皆を笑わせた。彼の表情には赤面より、何食わぬ余裕がある。笑いに代える機知、曝け出せる自信があれば、そして夢中にならざるを得ない野球部なら、私から何も言うことはない。彼は生きていく術を持っている。
 
 自発的に発言をしそうにない生徒に拒否を覚悟で懲りずに発言を求めた。成功体験を聞きたい。一人の男子生徒に発言を求めたとき、周囲からの失笑でざわついた。先ほどのおしっこを漏らした話を披露した笑わせる生徒とは違い、笑われるタイプの生徒であることはこの周囲の失笑で想像がつく。彼を指名してはいけなかったか。ただ、すぐに次の生徒に移ると彼を見切ったと見透かされ、発言を避ける子、できない子のレッテルを貼ってしまう。もう一度彼に発言をしてみないかと促してみる。拒んでくれてもいい、他の生徒を指名するから。が、彼は話し出した。そして、彼が話し出したことで再びざわついた。誰もが彼は話さないと思ったのだろう。

 小学生のとき、図工の作品がいつも上手くいなかった。しかし、一度だけ、ある作品が褒められ、表彰された。このことがとても嬉しかった。彼が話し終えると静まり返った。皆が彼の話を聞き入っている。彼が人前で話すこと自体に皆が驚き、小学生のときの図工作品が上手くいっただけの話、些細な体験談だが、拙くたどたどしくも自分の言葉で誠実に紡ぐ話が真を突いて、彼にとって本当に嬉しかった成功体験であったことが、皆に伝わったのだ。

 講演を終えると私は校長室に戻った。遅れて担当の先生が入ってきた。私が去った後、先ほど発言してくれた男子生徒が泣いていたそうだ。「人前で話すことが恥ずかしくて泣いているのか」と聞いてみると、「そうではない、みんなの前で話せたことに感極まり涙を流した」ということだった。

西郡学習道場代表 西郡文啓