『小さな信頼の積み重ね』2026年7・8月
現在販売中の『AERA with Kids 2026夏号』(朝日新聞出版)で、建築家の佐野文彦さんにインタビューしました。彼が設計した、木を大切にした独特の空間である神楽坂の眼鏡屋さんがインタビューの場であるということで、飯田橋駅から坂を上りながら気づきました。撮影用の衣装が無いことに。記憶をたどると、朝、東京駅から御茶ノ水駅へ向かったときに電車の網棚の上に置いたこと、それをすっかり忘れて数時間過ごしていたことがわかりました。打つ手はあるかもしれないが、収録時刻までには間に合わないことは自明。社員に鉄道会社に問い合わせてもらいながら、私は通勤服のままインタビューに臨みました。佐野さんの「普通という常識」から抜け出た自由で独特の人生を聞いているのは楽しかったし、学びも多かったし、記事としては良いものになっただろうと思いながら、買ったばかりの衣装を回収しなければという思いが頭の片隅を占拠していました。
2時間のインタビューを終えて社員から来ていた連絡を確認すると、「鉄道会社に問い合わせはしたけれど、どこかに届けられるまでは探しようがない」という主旨の答えでした。そこで私は、朝の細かいスケジュールや降車した場所を思い出し、電車が青梅行きだったことや、衣装を置き忘れた車両と網棚の位置をほぼ特定しました。それで、かなりの時間が経っていたのですが、毎回青梅行きとは限らないけれど東京駅と多摩方面の駅を往復した回数を仮で計算してみて、操車場などに行ってしまっていなければ、だいたい19時頃に御茶ノ水駅に到着するなとわかりました。そこで誤差範囲なども想定して18時30分くらいからホームで待っては、到着する電車の網棚をのぞくことを始めてみたら、7本目くらいの車両でめでたく発見しました。ちょっとした探偵気分というのか当たりの喜びというのか、そこはかとない充実感を覚えました。そしてそこで思ったのは「これが日本だよな」ということです。モラルの国。経済的豊かさも背景にあるとはいえ、文化として電車の網棚にある物を盗っていく人がほとんどいない、ということです。「落とした財布すら返ってくる国」なのです。そして世界各地をまわれば、これが稀有な事態であることも、よく語られることです。
また、こういうこともありました。結婚30周年ということで、5月に夫婦でフランス旅行に行ったのですが、そのときのエピソードです。ニースのマティス美術館へ行き、大好きなマティスの作品群を堪能したあと、お土産売り場で美術書や文房具、マグネットなど品数多く購入しました。そしてNetflixで昨年若者の間でブームになった恋愛リアリティショー「オフライン ラブ」で観た美しい海岸やおしゃれなカフェなどのある素敵な街並みを味わいながら散歩して、ホテルに戻って食事をしたあと、購入品をベッドの上に広げてみたときに気づきました。
「あれ? 後期の作品の切り絵が描かれた水筒がない」
全体としての領収書はもらったけれども明細はもらわなかったので、そもそも本当に購入したかどうかが不明になりました。「買ったけれど店員さんが袋に入れ忘れた」のか「買ったけれど私がどこかで落とした」のか「そもそも横に置いたりして、レジ打ちもされていなかったのか」……。誰のミスともわからぬまま、翌日。私たちはシャガール美術館へ向かい、地元在住のコーディネーターの男性にお願いして、マティス美術館に行ってもらいました。すると小一時間して合流した彼の手には、新品の水筒がありました。聞くと、最初は「なに言いがかりをつけているんだ」くらいの対応だったそうなのですが、すべての購入品をベッドの上に並べた写真や領収書を見せて交渉したら、まず明細がわかり、確かに購入していることが判明。それでも「もらっていない」と主張して追加で商品をいただいてしまおうという不心得者だっているし、ということで交渉は長引いたらしいのですが、最後は新品の水筒を渡してくれた。そのときのスタッフの上司の言葉が、「まあ、日本人は正直だからな」というものだったそうです。
なんでもないようですが、重い言葉だなと感じました。長年の先達たちの、無数の場面での無数の善行や正直な行為の積み重ねがあって、いま、民族として信頼されることになっているのです。実に誇らしいことであるし、大切なこと。前述の電車のエピソードとも通じますよね。
ちょうど帰国した日につけたテレビで、モンゴルから来た留学生が留学先を日本に決めた理由を話していました。彼は「他人に迷惑をかけない素晴らしい文化に憧れて来た」と言いました。
世界は混乱しています。あまりに巨大で世界中を巻き込む悲劇だった第二次世界大戦を経験して、70年強は「もう二度と戦争だけはいやだ」という気持ちが多くの人に共有されていたからでしょう、いろいろありつつも平和を希求する方角に国連を中心として動いていましたし、少なくとも日本は平和でいられました。しかしこの数年、帝国主義や植民地の時代に戻ったかのように大国が力と力の対決・収奪・侵略などを平然とやりはじめています。日本だけが無事である保証はまったくありません。
どう生きるべきか。特に個人として。
いざというときに備えて準備をしておくことなど、多様な視点がありますが、私は一番大事でズシンと効くのは、市民レベルの交流として信頼を積み重ねることだろうと考えます。「日本人は正直だからな」を世界中の人たちに言ってもらえるように日々行動することです。サッカーのゲーム終了後にゴミを集める日本のファン集団のおこないなどが典型ですが、地味だけれど信頼の貯金がたまる行動を重ねること。いざというときが来そうになっても、この信頼のパワーが助けになると思うのです。
ちょうど家族で旅行したりすることも多い季節です。駅やレストラン、ホテル等々、さまざまな場面でいろいろな国の多様な人々と触れあう機会も多いでしょう。そういうなかで日本人として相変わらず真面目で正直で他人のことを思いやる行動をとりたいですね。
みんなで一歩一歩。横で見上げている子どもたちの時代が少しでも平和で良いものになるように。 さて、夏休み。体験こそが子どもの頭と心を育てます。帰省・海水浴・旅行・科学館・ボランティアなど、さまざまな体験に満ち満ちた夏でありますように。
花まる学習会代表 高濱正伸
