花まる教室長コラム 『川面に映るあのとき』柳澤隼人

『川面に映るあのとき』2023年7・8月

 私は川が好きです。川を見ると彼の有名な鴨長明の言葉を思い出します。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」河が流れて行く様子を見ていると、池や沼とは異なり、とうとうと流れて行き、その水の流れは、河がなくならない限り絶えることはない、という意味です。世のなかに常なるものがないけれども、河の流れ自体は絶えないというある種の「歴史観」を、鴨長明は「無常」という言葉と重ね合わせて表しているのでしょう。激動の時代、たった一年ですら明らかに違う世のなかに変化しています。ただ私は思うのです。川の水はどんどん先に流れて行ってしまいますが、川面に映るあのときはいつまでも変わらずにそこにあるのではないかと。

 先日、地元に帰ったときに中学時代の友達に会いました。天気もよかったので久しぶりに友達とその子どもと地元を散歩しました。行く当てもなかったので、中学校を見に行くことにしました。中学校は川沿いにあるのですが、歩いていると忘れていた思い出がどんどんとあふれ出てくるのです。石を蹴ってどこまでなくさずに帰れるか挑戦したこと、はじめて友達と本気で喧嘩をしたこと、友達が好きな人に告白するため、みんなで橋の上でその子が通るのを待ち構えたこと(後日譚ですが、遠目に私たちを見て、なにかあると踏んでその子は別の道から帰って告白はかなわず終わりました)。「そんなことあったよね」「よく覚えているね」という日常の何気ない一コマが、あのときに戻ったかのように次々と鮮明に思い出されました。まわりの景色は違っていて、更地になっている場所もあり「ここになにがあったっけ?」なんて会話をしながら歩いていましたが、確かにそこには変わらないものがあったのです。通学のときに毎日通った日差しを映す川は、細かく光の粒を放ち、あちこちにぶつかった流れは水しぶきを上げ白く激しく泡立っています。その光景のなかにあのときが変わらずありました。まるで川面が私たちの記憶の入り口となっているように。

 サマースクールの一幕。子どもたちと川遊び中、私が何の気なしに「きれい」と呟きました。私の目にパッと入った光景はキラキラと輝いた川面の上で太陽のように眩しい笑顔で遊ぶ子どもたちの姿でした。その姿の美しさに心を奪われて出た言葉です。するとおもしろいことに近くにいた1年生、2年生、3年生の男の子たちが「ねぇ~! きれいだよね!」と共感したのです。その子たちになにがきれいか聞きました。すると1年生の男の子は「森が緑できれい!」と。青々とした山に囲まれて大自然のなかで遊ぶ経験がなかったその子は自然の雄大さをきれいだと思ったのでしょう。2年生の子は「川の水に雲が映っていてきれい!」と。なるほど、夏の大きな入道雲を映す川は、川であり空でもあるのだと気づかされました。そして3年生のYくんが一言。
「あのリーダー、きれい」
視線の先には、ある一人の女性リーダーがいました。Yくんは彼女に恋をしました。どこか移動するとき、ごはんのとき、外で遊んでいるときにいつの間にか彼女のもとに行っているのです。百人鬼ごっこでは「僕の後ろに隠れて! 僕が守るから!」と映画から飛び出してきたヒーローのようなかっこいいセリフを言い、彼女を守ります。そのあとの自由遊びではせっせと花を摘み、花束を作り、膝をついて彼女に渡していました。ひと夏の恋がYくんを大きく成長させ、MVPを取ってサマースクールを終えました。  

 解散のときにYくんが「(そのリーダーと)離れたくなーい」とおいおい泣く姿を見て、人を好きになることを学びサマースクールの度にこの甘酸っぱい気持ちを思い出すのかな、と温かい気持ちになりました(私とは離れてもいいんかーい‼ と思ったのは秘密です)。

 人生と呼ばれるものは、川の流れのように過ぎ去った時間のなかに潜む無数の欠落のうえに成り立っているものなのかもしれません。しかし川面に映るあのときの情景と人々が私たちの人生を明るく照らしてくれるのだと思います。いつかどこかでそんな川面を見てあのときの自分と出逢えるよう、一度しかないこの夏にたくさんの思い出ができますように。

花まる学習会 柳澤隼人