高濱コラム 2009年 6月号

アジサイ。紫陽花と書きます。花びらに見えるものはガクで、いわゆる装飾花。梅雨どきの風景の中で、緑の中に浮いているような、独特の存在感を示します。子どもが引きつけられないわけがありません。

私も小学校の低学年時代だったと思いますが、学校の帰り道に、城址のある公園に咲く花を手折っては、ひとしきりもてあそび、やがて飽きた頃に橋を渡るのですが、エイッと川に投げ捨てたものです。どこかボールに似ていたからかもしれません。折から川は増水していて、いつもより激しい流れの中を、あっという間に流され小さくなり飲まれてしまうのを、じっと見つめていたことを覚えています。

話は変わって「叱り方」です。講演会で、もっとも盛り上がるテーマでもあります。要は、母は偉大である一方、感情スイッチオンになると、関係ない昔の失敗や過失を持ち出したりして、クドクドと長引いてしまい、叱る意味も効果もなくなってしまいがちだという話なのですが、もっとも問題なのは、ちゃんと叱れないお母さんです。「話せば分かる」「相手の傷つくことをしてはいけない」というような文化が行き過ぎて育ってしまったせいでしょうか、へっぴり腰で親の権威を示せないのです。

花まるを始めた16年前は、やはり私もそういう時代の空気の中で育ったせいで、叱ることの大事さは頭では分かっていても、ちょっと苦い気持ちが残ったものです。ところが、何年も続ける中で、実感として確信できたことがあります。それは「叱ったあとって、子どもは、なつくなあ」ということです。もちろん感情まかせでは駄目ですが、本当に彼の将来を思って何が正しいかを真正面からぶつけた翌週には、親しみを込めて寄ってくるのを何度も感じたのです。

ある梅雨の日、保護者と廊下で面談をしていました。授業は終わり、子どもたちは園庭で走り回っていたのですが、一人の一年生K君がこぶし大の石を、すべり台に投げつけているのが見えました。私は、即座に「コラッ!」と大声をあげ、目の合った彼を呼び寄せました。今どき珍しい青洟をたらした彼は実に愛らしい子で、巣穴から珍しいものをみつけた動物の子のような瞳で、私を見つめ返してきます。きっと、4月からのつきあいで、いつもニコニコしたおじさん先生だなと思っていたのに、睨みつけてくることにとまどったのでしょう。

涙目をヒラヒラさせながら近づいてきた彼に、今の行為が誤っていることを指摘し、ごめんなさいを言わせ、ポンと頭をなぜて「じゃあ、約束を守って遊んできなさい」と解放しました。そして、再びお母さんとの面談に戻って、ひとしきり話したころです。後ろから誰かにトントンと肩をたたかれました。K君です。

ハイと差し出す彼の手には、アジサイの花。怒ってしまった先生をなだめようとでも思ったのか。仲直りしたいとでも思ったのか。その健気な姿にすっかりハートを射抜かれてしまいました。しかし、よく考えたら、それって園庭のアジサイをちぎってきたってことかと、今度は血の気が引くような感覚にも襲われます。

私はメロメロな心のまま一方で叱らねばとも思い混乱しました。そして、「駄目じゃないか。ありがとうね」という、全く矛盾した言葉をつぶやきながら、ただ青洟の彼の顔を、ギュッと抱きしめてしまっていました。