Rinコラム 『ためになる言葉』

『ためになる言葉』2010年12月号

「この子たちは自分をはるかに乗り越えて、未来の国を作って言ってくれる人なんだ、という敬意を持って子どもという宝物に接していかなくてはならない」

「後に作家として立つような人が、教師に書き出し文を与えたために個性を失って型にはまってしまったなんてことはあるでしょうか。本当に特殊 な才能というのは、私たち教師が三年や五年いじったからといって、壊れはしないでしょう。―略―教師が教えてくれること、それによって伸びたいと、心の底 から待っているのです」「子どもの個性・主体性を尊重する」ということばが、「教える」ことを背後に押しやっていった。教師が教えなくなったこと、それが 戦後の教育での最大の失敗だという、今は亡き大村はま氏の記事の中の言葉です。

たとえば子どもたちが作文を書くとき、原稿用紙を渡されただけで子どもたちは書けるでしょうか。書くことが見つからない、何を書いていいかわ からない、そんなときに書く題材のヒントを言ったり、ちょっと書き出しの文を与えて「そこから先を書いてごらん」と示したり、いい表現が見つかるようなヒ ントを出したり、そういうのが、教えるということ。これは、子どもの個性が失われるということとはかけ離れています。こうして基礎的な力を身につけた人 が、それから個性の花を咲かせるのです。「自由自在に書く力」とは、「自分がもしも何かを表現したい、書こう、と思ったときに、躊躇無く苦労せず書ける 力」のことです。

同時に、「自分を伸ばしてくれない教師だったら、その子たちにとって害になるのではないでしょうか」というはま氏の言葉は、いつも教室に立つ ときに私が心に留めているものです。和気藹々の楽しさと、学ぶ喜びに満ちた学習の楽しさ、は、一見してわからないかもしれませんが、まったくの別物です。 一人ひとりどの子も、自分の持っている力の限界まで使っているかどうか、力のある子どもにも、さらにその子の優れた力をはるかに上回る幅や高さをこちら側 が持っていて、夢中にさせられるかどうか。簡単でつまらない、そんなことが起こらないように。それが、「優劣など頭に浮かぶ暇のない世界にまで、教師は子 どもを連れて行く」ということなのでしょう。

最後に、ときどき保護者の方にも伝えることのある事例をひとつ。どうしてもうまく畳めない浴衣に苦戦する四苦八苦していたときに、通りがかっ た母親が言った一言は、「裾を持ちなさい」でした。彼女は、「きちんと畳みなさい」と言うのではなく、「裾を持ちなさい」と言える教師でありたいと思った そうです。「きちんと畳みなさい」だと人を責めるような言い方ですし、ではどうすればいいのと言いたくなります。でも「裾を持ちなさい」なら、誰だって裾 くらいもてますし、そして確実にきれいにきちんと畳めます。小言ではなく、具体的で、必ず成功できることを適切に指示できてこそ、子どもたちのためになる 言葉です。

「よく読みなさい」「姿勢をよくしなさい」と、言うのではなくて、自然にそうなっていくような一言をかける。子どもたちに、ためになる言葉をいくつかけてあげられたか、持っている力の限界まで使わせてあげられたか、それが私の授業の指標です。