西郡コラム 『計算可能な「学力」』

『計算可能な「学力」』2012年9月

「学力」を向上させることは、学習塾として当然のことだ。もともと学習の成果を「学力」というのだが、学習の中身で「学力」も変わってくる。読み書き計算の「学力」、小中学校(高校も含め)で教科書の内容(「学習指導要領」)を身につけた「学力」、中学入試に合格できる「学力」、高校入試(しかも公立高校入試)に合格できる「学力」等々。

「学力」を考える時に見るものは学習した成果(たとえばテストの点数)だけではない。「学力」を身につけるための、意欲や興味・好奇心といった学習に対する動機づけ、学習を定着させるための集中力、持続力、そしてまじめに取り組む勤勉さ、態度も重要である。さらに、思考力、表現力、問題解決能力も必要になってくる。これらも全て含めて「学力」ということもある。私たちは様々な文脈で「学力」という言葉を使い、その中身も違っている。

私立中学は入試問題の点数のみで合否が判定される。合否を公正にするには、判断基準を明確に、客観的にする必要がある。そのために知識の蓄積と問題解決のための処理が点数化される。点数で現れない「学力」は、これだけの点数を取る子どもなら学習に対する集中力、意欲、興味、好奇心、態度、思考力、表現力、問題解決能力も相関関係として持ち合わせているだろうという判断が働く。私立高校や大学の一般入試も「学歴」も同じ。受験「学力」がある生徒は、ほかの能力も当然身についている、そうでなければ高「学歴」は勝ち取れない、と。

公立高校入試になると「内申点」が加算される。「内申」というのは入学試験の結果だけでは測れない、中学生活における態度や意欲、興味・好奇心、積極性も点数化して入学の基準にいれるというもの。授業中の態度、宿題の提出の勤勉さ、発言等の積極さといったことは客観的な判断は下しにくいが、提出の有無、手を挙げる回数などでより客観性を持たせながらも最終的には担当教師の恣意的評価になる。さらに「特別活動」として生徒会活動、部活の活用も考慮される。生徒たちをまとめるリーダー的な存在なのか、運動に実技に秀でているのかも入試に反映される。公立高校に合格する「学力」は、入学試験の点数だけは測れない「学力」も含めることになる。

文科省のいう「学力」とはどんな「学力」だろうか。詰め込み教育の反省から「新しい学力観」が出された。「知力に偏るのではなく、体力、知力、人間力という3つを考える必要がある。その中で、忍耐力や共感力を教えていくべきである」「科学セクターと技術セクターとのコミュニケーション、専門家と一般国民とのコミュニケーションなどの社会的コミュニケーション能力である」「求められる学力として、『基礎学力』『計画力』『選択力』『行動力』『創造発見力』『シンプル力(論理的に考える力など)』『持続力』『元気力(ユーモアや表現力など)』『仲間力(コミュニケーション力など)』『幸福力(感動する力など)』というようなものがあるのではないか」。ここでは人が生きていく力として「学力」をとらえている。

そして、学指導要領の改定とともに「確かな学力」が打ち出された。「(1)基礎的・基本的な知識・技能を確実に定着させる。(2)こうした理解・定着を基礎として,知識・技能を実際に活用する力の育成を重視する。(3)この活用する力を基礎として,実際に課題を探求する活動を行うことで,自ら学び自ら考える力を高めることが必要である」。ここで「活用」という言葉が強調されているのは、高度情報社会で生きていくための「コンピテンス」、簡単に言えば、携帯の通信機器があれば、覚える必要はない、要は、通信機器の使い方を覚えればいい、知識偏重ではなく、知識を活用することがこれからの社会では必要になってくるから。

このように「学力」といっても多種多様。ただ、どのように規定されようと「学力」と言われた以上、その中身を子どもたちが身につけるように要求されてくる。要は「学力」とっても人それぞれ使う文脈が違う、だから惑わされないこと。「学力」を身につけるといっても、何を身につけさせるか、今その子に必要な「学力」とは何か、「学力」の質を考え、その子の発達段階の中で考えないと子どもたちにただ過大な負担をかけるだけになり、身につかない。

私は「学力」を計算可能な能力と限定することにしている。あくまでの計算可能な能力。目に見えるのが「学力」。目に見えない、これから育とうとしている集中力、意欲、好奇心、興味、思考力、表現力、ひいては人柄、人格を「学力」とはいわない。その子を伸ばすために、私が偏見を持たない、見誤らないことだ。「学力」とは別に、「集中力がある」「学習に意欲は持っている」それぞれの能力が育っているかどうか個々に判断する。要は、点数化された結果だけで判断すると、発展途上にあり、未分化である子どもたちは伸ばせないということ。

「おくのほそ道」は、江戸・元禄時代(1702年)に著された松尾芭蕉の代表的な作品。これは「おくのほそ道」を読まないでも、何時、誰が著したかという知識は得ることができる。何時、誰かは覚えていないが「『おくのほそ道』は面白い。旅をしながら自分の感性だけでそのときの感動を一句にする、自分もやってみたい」と、自分で感じた知識を貯めていく方が生きる力になる。だから、「学力」は計算可能な能力でしかない。