西郡コラム 『ニコニコ』

『ニコニコ』2012年11月

高校一年の春、国語の授業は古典の読解だった。確か「徒然草」だったと思う。一段目を現代文に訳す課題が出され、どう訳したかを一人に発表させることになり、私に順番がまわってきた。私が訳しだすと、声を表に出すのを堪えても漏れるクスクスという音が聞こえてくる。先生も怪訝な表情をしていたが、私の訳が進むにつれ、表情は崩れ笑みを浮かべだした。そして、先生の表情が緩みだしたのを確認するかのように、クスクスは一斉に弾けた、憚ることのない笑い声と変わっていった。どうも私の訳がトンチンカンだったようで、まあこんな訳がどこから出てくるのかと呆れ果てた可笑しさと、ただでさえ緊張の真ん中にいるのに笑われているという意識で、我を忘れて必死に訳している私の形相が益々滑稽になって腹を抱えて笑い出す雰囲気を作り出してしまった。どう訳したかは記憶の彼方だが、笑われた場面は脳裏に残っている。

クラス皆から先生から笑われた、字面だけとってみれば残酷な仕打ちである。そうでないのは先生の笑い顔に微かではあるが私は認められているという感触があったからだ。ニコニコ笑いながら決して蔑視ではない、どこか認めている笑いである。酷い訳、国語のセンスが全くない訳、まあこんな勝手な訳がどこからくるのか、先生の怪訝な表情はこんなことを思ってのことだろうが、それでもニコニコし出したのは私が自分で考えて訳したから認めた笑顔だったのだろう。古文を現代文に訳す課題に、訳本ぐらい参考にしてくるだろう、という予想を見事に裏切り、愚直なまでに勝手に訳しているから面白かったのだろう。要領のよさより愚直な方が好まれる。

羞恥はあった。しかし、年月ともに風化し、ある種の郷愁になり、このエピソードは今となっては私の教師像の一つの柱になっている。

笑われるということは、さらしものになること。当人にとっては耐え難い屈辱的なことだ。これを教室で行えば非難される。しかし、表面だけ捉えてはそうなるのだが、できないことをさらすこと自体は悪いことでない。教室は学ぶ場である。分からない、出来ないから学ぶのである。だから、分からない、できないことをさらしても一向に構わない。人に笑われようが構わない。出来ないことに直面していることに変わりはない。教室で格好をつけても、体裁を気にしても無駄なものだいうこと。教室ではあるがままの自分をなるべくさらけ出させるようにしている。羞恥心は解放の手がかりになる。ものを考えるときは解放されていなければいけない。喜怒哀楽、感情の部分を使わなければものは考えられない。ごまかしややった振りは、教室では必要ない。そんなことをやっている場合ではない、時間が惜しい。

叱られてさらしものなることも同じ。叱られて格好悪い、そんなことはどうでもいい。なぜ叱られるのか。分からない、出来ないから叱られているのでない。格好をつけているから、あるがままの自分をさらけ出させるために叱っている。さらけ出させるために叱っている。ほめるのも同じ。ほめることでより自分を出させることになるから。ほめる、叱るは表面的なことでしかない。学年が上がれば上がるほど、ほめられるから叱られるからやっているのではない、学んでいるのではないということが分かってくる。

ほめられて悪い気はしない。笑われた、叱られたとなると、屈辱だけが残り、もう通いたくない、になる。親は子どものつらい仕打ちを見逃すわけにはいかなくなる。しかし、表面的なところで判断してしまうと、せっかく成長の岐路に立っている機会を失うこともなる。いくら意図したことでも伝わらなければ意味が無い。通いたくない、になってしまったら教える側の責任である。どんなに笑われても叱られても、また通いたくなる、でなければこちらの意図は完遂できない。

一点、あなたを認めているということ、認めているだからこそ、そして私の体裁でも親の体裁でもない、あなたのため、これをどこか感じさせることで、行きたくないは防げる。保護者にも、先生がやっていることだから何かしらの意図があると思ってもらえる信頼がなければ、子どもを丸裸には出来ない。保護者の信頼を得るには、日ごろの言動すべてにかかってくる。通いたくない、行きたくない、やめる、は私たちにとって死活問題だけではない。そういわしめた自分の力量のなさを痛感する。

教室は学ぶ場である。凝縮されている、中身の濃い時間を共有しなければ授業料に見合わない。そのためにも子どもたちは自分自身をさらけ出す。その雰囲気を作っていくのが教室を受けもっている教師の仕事。さらけ出す雰囲気を作ると教室ではいろんなことが起こる。起こらないようにするのでなく、起こるようにする。教室では笑うことも、泣くことも。怒ることもある。感情がむき出しでいい、そうでなければ本当の学びへは導けない。

私のトンチンカンな古文の訳を、ニコニコしながら聞いている先生の姿は私の財産になってきた。国語のセンスがない、しかし自分で訳そうとする、そこからしか学びは始まらない。