高濱コラム 『泥沼の花』

『泥沼の花』2015年7月

 今、「悪意への対応」ということを、考えています。特に、ネット上に匿名で書かれる悪口。これは、主に2種類あって、一つは、私や花まるの中を全く知らないとおぼしき人の、憶測や空想に基づく、決めつけかつ荒唐無稽な批判。武雄のニュース以降、急増しました。今お付き合いしている、成功して人の何倍も社会に貢献している方たちが異口同音に言うのが「有名税みたいなもんだよ」ということ。不特定多数の群れの中には、望む人生にならなかったことを他人のせいにしたくて、ターゲットを探して匿名で傷つけることに発散を感じる人がいることは、社会学的にある程度仕方ないことでしょう。
 しかし、「関わる人みんなを幸せにしよう」と20代の頃に誓って生きてきた身としては、いまだに「こういう人たちにも、何かやってあげられないかな」と、一縷の望みを捨てられないところがあります。「そんなことしたって、人生絶対に良くはならないよ」と言ってあげたい気持ちが一番ですが、最近見聞きする同型の事件で、警察が本気になれば特定して逮捕できることが分かり、一度書いてしまったことは責任を取らされる時代が、早晩到来するんだろうなと考えています。
 悪意の2つめは、内部にいた人の書き込みです。何人かになりすましたり、私の実家に匿名の中傷の手紙を送り付けたり、悪質というより犯罪そのものです。ほぼ特定できているのですが、一度は仲間として過ごした人を、こういう状態にしてしまったことには、責任を感じます。「『部長なら、やれます』と言う転職者」という川柳がありましたが、自己像とこちらの評価のギャップを考えると、採用段階で間違っていたのかもしれません。しかし、本気で愛を注げていれば決してそうはならなかったと信じています。可愛がりそこねたのは、最終的に私の責任です。
 ほんの十数年前、数名の社員数だったころは、黒光りするくらいのブラックで、男は週6女性は週5のルール(それも問題ですが)ながら、実際は年に360日くらい働いていました。賞与ももちろん無し。では、恨まれているかというと、残った人材は会社の中核を担ってくれているし、外に出た人もかけがえのない絆でいまだに結ばれています。それは、同じ釜のメシを食い同じ夢を共有しながら、大笑いし続ける日々であったからです。愛はコンプライアンスを凌駕します。
 もちろん規模も大きくなり、社会的公器としての役割が増した今、昔と同じではいられません。件の2つめの中傷群が応えるのは、「無いこと(これは彼らも責任を負わされるでしょう)」だけでなく「あること(確かに会社として至らなかったこと)」も含まれている点です。しかし、とるべき道は明らか。誰から見ても誇れる会社に変革していくことです。実際、ここ5年くらいで、一気に体制が整ってきて、出産後の女性たちが子連れのまま出勤できるくらいに、進化しています。それを推し進めてくれたのは、初期からずっと、ともに頑張ってきた仲間でもあります。「こそこそせず、どうせ鍛えられる道を歩むのなら、上場を目指すか」と話しています。

 それやこれやで、大人のドロドロを考察していると、つらくも何ともありませんが、愉快ではない。
 こんなとき、子どもたちが心を引き上げてくれます。教室という現場を持っているから手に入る、最高の贈り物です。
 3年生のJ君は、落ち着きのないその年代の子たちの中でも倍速で落ち着かない子です。しかし、愛嬌があっていつも人を笑わせつづけているので、女の子にはモテます。特に最近では、明らかにファンともいうべき特定の子が、いつも隣に座っていて、授業終了後彼がトイレに行って退室が遅くなったときも、彼女がバッグを持ったままじっと待っているという光景なども見ました。
 そのJ君が、授業の終わり近くに、ニッコニコのまさに得意満面で「先生これ!」と紙切れを持ってきました。葉書より小さ目くらいのそれには、筆圧の強い力作の似顔絵。見た瞬間分かりました。「これ、先生?」と聞くと、瞳がキラーンと光って「うん!」。お隣の彼女にも「似てる!」と言われたそうで、また私も、思いのこもったプレゼントに大喜びしたので、よほど嬉しかったのでしょう。身体をクネクネしながら足をバタバタさせています。こんな姿を見ていると、たちまち私も有頂天で、幸せだなーという気持ちに満たされます。
 ところが、彼が席にもどったあと、その紙の切れ端を裏返してみてビックリ。それは100点をもらった文章題プリントを引きちぎって裏に書いたものだったのです。少しの間、私の中に混乱とためらいがありました。けれど、やってはいけないことをやったのだから、やはり叱らねばなりません。厳しく叱責しました。
 今褒めてくれた先生の豹変に、今度は意気消沈。ちょうどお母さんへの引き渡しのタイミングだったので、紙の表裏を見せながら、そのまま伝えました。やらかしてしまった哀しげな瞳の彼をお母さんは「メッ!」と睨みました。しかし同時に、お母さんと私は「たまらないですね」という目配せをしました。
 無邪気。この美しきものよ。泥の沼に浮かぶ一輪の蓮の花に日が差している。そんな光景が浮かんできます。子どもたちといられることは、まぶしく、ありがたく、幸せです。

花まる学習会代表 高濱正伸