高濱コラム 『考える子』

『考える子』2023年1月

 住みたい町として、常にトップ争いに入ってくる福岡市。講演などで全国を渡り歩いている私から見ても、買いたいものやおいしい店がすべて揃い、仕事も何でも成立する大都会の良さと、おだやかで温かい人の多い、良い意味での田舎っぽさとが両立していて、確かに日本一だなと感じます。それらの良さを支える税収増で、断然の実績をあげたこともニュースになりました。そんな素敵な町に変えた凄腕の市長さんである高島宗一郎さんと、対談しました。
 きっかけは、彼が絵本『アヒルちゃんの夢』(エッセンシャル出版社)を出版したことです。市長が絵本? お気楽に聞こえるかもしれませんが、聞けば、事を成す人物独特の「見えた!」というひらめきがあったそうです。課題は、日本の教育。関係する個々人は善良なのだが、ステークホルダーが多すぎて、必要な変革が進まない、岩盤中の岩盤状態を感じていた。たとえば、起業家育成と唱えたところで、旧来の受験システムも変わらないし、結局は「就職」という「雇われる枠組」を選ばせていく基本構造は、一向に変わらない。その岩盤の意識の世間に対して、正確な言葉で論理的に説得したとしても、大多数は動かないし効果は小さい。さあ、どうすべきか…。
 一方で、絵画との邂逅とも呼ぶべき、新しい心の変革があったそうです。もともと10段階中の2というくらい、小学生の頃から図画工作の成績も悪く「絵は下手」と思い込んで生きてきた。しかし、たまたまここ数年、モダンアートに心惹かれ、はまることになり、絵画が身近な存在になっていた。そこで、昔から理由もなく描いていた「アヒル」を気楽な気持ちで描いてみたら、なかなか良い。その瞬間、絵本になるかもと直観し、先の教育へのモヤモヤに対しても戦略が見出せた気がした。「絵本なら、理屈での堅苦しい説得ではない、心に響き動かし、意識を変える効果を生み出せるのではないか。子どもだけではなく、一緒に読み聞かせをする親御さんにも、自然でソフトな形で意識改革を促せるのではないか」と。
 実際、ヘタウマ系のおかしみのあるキュートな絵で、一羽のアヒルが、飛びたいという情熱をエネルギー源にして、さまざまな失敗を乗り越え、クラウドファンディングで資金集めをし、起業し、成功し、学校を創る物語は、シンプルでわかりやすく、なぜか引き込まれるおもしろい出来栄えです。もしかしたら、今後、動かしがたい「民衆の意識や常識観の壁」に当たった政治家がマネをする、新しい一手になるかもしれないとすら感じています。

 さて、その対談のなかで、考えさせられるやり取りがありました。それは、この国の「失われた30年」と呼ばれるような沈滞や埋没の傾向の根っこにあるのが、豊かさの病であり、空気に流されて自分の頭で考えない「無思考」だという話題になったときです。では、一人の若者に、どうすれば「考え抜く経験」を与えられるか、という問いに、高島市長は、言下に「マイノリティの立場になることではないか」と答えたのです。これには膝を打ちました。
 たとえば、全体で空気を読み合いながら同じことをしているときには、みんなが無思考になる。集団(国家)の目的が、仮に戦後の「経済復興」のような明確なものであるときには、個々に異論を唱えたりしないことが、群れの心理の安定と全体の行動の統一のためには、むしろ最適な面もあるかもしれない。しかし、便利で豊かな生活をひとまずみんなが手に入れ、自分の人生は自分の価値観に従って決めようという多様性の時代になると、一人ひとりが考えることが大事になる。高島氏いわく、そのためには、たとえば留学すると良い。まったく異なる価値観や宗教を信じる他人のほうが大多数で、自分こそマイノリティという立場に、自分事として身を置いたとき、「思考のスイッチ」は入るのである、という主張です。
 これは、自分の人生を振り返っても、当てはまります。小学校五年生の頃、クラス全員からいじめられる(いま思えば、彼らは「からかっていた」だけでしょう)という、孤独で寄る辺のない状況になったとき、私は人生を考え始めました。友達って何? 学校は絶対行かねばならない? 生きていなければならないのか? 私は日記を書きはじめました。特に小六からは、誰にも見せない日記ワールドに、外では見せない本当の(弱い、いやらしい、妬み深い…)自分の気持ちを言葉にして書きつけることが、なんとも言えない吐き出せたスッキリ感と、見えない真実に近づいたような充実感につながり、習慣になりました。日記はいまも続いています。中学校までは、級長であり児童会長・生徒会長でもありましたが、そこに「先生に認められる『良い子・できる子』を演じている自分」を明確に見て取っていました。そして、高校からは完全にその人目や他人の評価を気にする意識から開放され、誰が何と言おうと自分がおもしろいと信じることをやる生き方をつかみました。ここで言いたいのは、孤立に追い込まれたおかげで、自分の頭で考えることにつながった、という事実です。

 しかし、考えてみれば、もっと普遍的なテーマは、「逆境」ということではないでしょうか。マイノリティの境遇も一つの逆境。同じように、たとえば経済的苦境も逆境でしょう。なぜ戦後の復興期には、本田宗一郎や松下幸之助、井深大のような世界的な起業家が続々と生まれたのか。それは「失敗したらゼロ」という、退路を断った真剣な境遇にいたからでしょう。大企業として安定期を迎え、どちらかというと「失点のない人が社長になる」傾向のある会社文化からは、大物は出ない。それは思考の切実さと深さのせいではないでしょうか。とりあえず失点がなければ食えてしまう豊かさの落とし穴とも言えるかもしれません。
 人生万事塞翁が馬。一見つらい境遇も、一面では、「思考の深化」「内面の進化」「意志の強靭化」という実りをもたらす。「苦労は買ってでもせよ」「可愛い子には旅をさせよ」「留学は真」「転ばぬ先の杖こそ、一番残忍な行為」…。表現はさまざまですが、本質は同じことを言っていると思います。
 そういう意味では、祖先たちが「次の時代こそ、子どもたちの世代が豊かであるように」「困らないように」「便利に」と願って、営々と築き上げてくれた豊かさを、我々は享受しているわけですが、豊かで便利であるからこそ、一人の子どもを強くするために、「どう失敗や孤立や挫折の経験を与えるか」が、教育課題になる時代とも言えるのかもしれません。
 そして同時に、コロナ禍というひどい逆境が全体として続いた現代は、着々と強靭な個人を生み出している面もあるのかもしれません。そもそも歴史的に「追い込まれると強い」国民性もあるし、長い目で見ると、この数年の環境も悪くないとすら思えてきます。
 可愛い可愛いわが子。私自身が、小五の絶望的ないじめの境遇でも、母の「あんたが元気なら良かとよ」という言葉にこそ支えられたと感じていますが、育ちのどこかで、わが子が孤立や不遇な目にあったとき、絶対の味方でいてあげることは、親として一番大事なことで、見失わないでいたいことです。一方で、ただ騒ぎ立てるのではなく、いまこの子は強くなるチャンス、思考力を深めるチャンスにいるんだという「目」も、失わないでいたいものです。
 年末にリリースした、花まる学習会のPVでも、すぐに助けてくれる親がいないときの失敗や挫折の局面で、泣くのだけれども、リーダーや仲間の寄り添いによって支えられ乗り越える場面が出てきます。花まる学習会は、これこそ「メシが食える大人に育てる」ための核心と信じ、今年も雪国スクールやサマースクールをはじめ、さまざまな経験の場を提供していきたいと思います。
 本年も、よろしくお願いいたします。   

花まる学習会代表 高濱正伸